2019年12月21日土曜日

感情について

喜怒哀楽の感情を通して霊達は存在を現す、と以前にも記したことがある。先回のミーティングで自分の思うところを正直に述べると、ある食口は怒りを露わにした。彼の怒りの正体は一体何だろうかと語気の強い言葉を黙って聞きながら内面に尋ねてみた。実は反発を買うのは今回が初めてではない。今年初めのミーティングでも他の食口から、皆の面前で私はサタンだと言われた。口に出した本人はその決め付けを当然だと思っているらしい。私はそれを黙って聞いていた。悲しくは思ったが怒りを覚えはしなかった。全くなかったといえば嘘になるが、悲しいという別の感情の方が強く湧いていた。今回も悲しく孤独な自分を味わった。ただ、たとえ食口であっても本音をそのままぶつけるべきではなく、建前で対する必要もあることは学んだ。人は普通怒りをもって対されると怒りでもって返そうとする。怒りの霊が怒りの霊を呼び起こしている。私自身も反発感情が込み上げないことはないが、別の感情で対処すべきだということは長い信仰生活で学んでいる。それが後天時代に於いても正しいかどうかは疑問がある。怒りという感情それ自体が罪とは思わないが、怒りに対してどこまでも怒りで対処するのは罪だ。感情の爆発を誘発させる、所謂罪の繁殖だ。私には私の良心(神)がいくらかは働いていて、感情に翻弄され感情そのものに主管されないようリードを取ってくれている。しかし価値の創造を為さんとする者は感情豊かな存在であるべきというのもあって、素晴らしい作品を残した多くの芸術家達はその破天荒な性格や感情の起伏の激しさを指摘されていて感情という魂の活動が価値創造と関係していることがわかる。核分裂も電子力発電のようにコントロールされているとその価値を正しく主管され用いられるように、感情も起こさないというコントロールではなく感情作用をどう主管して用いるかで価値創造を発揮する。食口は抑え抑えていた感情の枷を先ず外すことが必要だ。その意味では私が悪者になるとしても皆の感情を引き出せたことは意味があると自負している。

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