2019年12月21日土曜日

仏作って魂入れず

食口は信仰と愛ゆえに他の兄弟と繋がり中心者と繋がり、そして御父母様に神様に繋がっていると思い込んでいるが、一歩外から眺めると抜け出せないヤクザと同等に思われている。祝福儀式である聖酒式そのものが親分の息のかかった女性を宛がわれて契りを交わすというヤクザそのものだ。しかし我々がヤクザと変わりないと言えばヤクザはいい顔をしないだろう。本来のヤクザは義兄弟の血を意識し流す血を目にもして、血の繋がりを全体生命としてその血縁の中でこそ自分は存在していると認識しているが、私達がどれほど心情に根差した血統血縁関係を食口間に見るかは疑わしい。私達の真の父母を頂点とする血統圏は霊的なものであるから、感情を超えて心情にまで至らないとその結びつきは教条的なものだけで済ましてしまう。本当の統一食口なら心情で繋がっていることを自覚すべきであり、背後に心情が溢れ流れていなければ活動も目標も結果も、そして御父母様も神様さえも意味がない。本当はヤクザ以上に濃い魂の関係性を持つ群れであるのに、御父母様に魂を預けてきたはずが、実は負われてすがることに終始し魂を捨ててしまったので返して戴く魂はなく、後天時代は良心革命でそれぞれの良心(神)に従うべきなのにそれが為せずに教条的な外的信仰様相に留まるしかない。そうなると信仰と愛で繫がっているのではなく教条的な決まり事で繋がり教会という枷をはめられて抜け出せないだけだ。仏作って魂入れずの言葉の如く、信仰だ愛だといいながら自分も人生も、魂も霊もないもぬけの殻だったことに気付くとなると悲劇であり、あの世に行ってすら、いとも簡単に受けた祝福を恨みにすら思うだろう。

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