2019年12月7日土曜日
今日の想い 1047
言葉の中に神様がおられる。言葉の鞘を取るとその本質が神様だ。人間は言葉を使いながら言葉の本質を探し求めている。御父様が語られたみ言葉は神様の新しい鞘であり形状だ。私達は新しいみ言葉を受け取り、何度も何度も内面で噛み砕きながら神様を求めてきた。私達がみ言葉を通して求めてきた神様も、この世の人達が言葉を通して求めている本質も、実は同じだ。み言葉は受け取ったけれどもより本質を求め神様の願いに適った歩みをしているのは決してみ言葉を受け取った私達ではない。言葉は全ての人間が使っている。言葉を使いながら内外の活動をしている。み言葉を知っているという選民意識は後天時代では通用しない。言葉の本質を探し求めてもいなかった者が、み言葉を知っているというだけでどうして神様に近い存在だと言えるのか。この世の荒波に揉まれながらありとあらゆる問いの言葉の本質を求めてきた、その積み重ねが人類の内外の宝となっている。いきなり独善的にもみ言葉という鞘を直接語り伝えようとしたところで、どこの誰が内面に落とし込めるのか。私達はみ言葉の理解どころか、言葉の理解すら曖昧であり人間社会に対して素っ頓狂だ。先ずは普通の人々に普通の言葉で授受しながら彼等が掘り進めてきた本質の価値を共有するところから始めることだ。人間関係を深めるのは言葉を通じてしかない。私達は神様を伝えるのではなく、言葉によって深められた人間関係から神様を見出すのであり、相手の只中に神様を発見して気付いていない相手に伝えることだ。み言葉は言葉を底上げし言葉に寄り添ってこそその価値を発揮するはずだ。いともたやすく愛という言葉を使ってきたけれども、愛の重みをより味わっているのは果たして私達だろうか。犠牲がひとつの愛の形だが本当の尊い犠牲はそれすら知らずに受け取る彼等の身悶えであり、それを通過した者は等しく神様を内在させた顔を見せている。私達は摂理を担ってはきたけれども、本当に苦労してきたのか犠牲を払ってきたのか良心に問うてみるべきだ。私達が神様が認めるアベルであるなら、守られもせずあらゆる苦労を担ってきたカインであるこの世の人達に感謝すべきであり、また謙虚に教えを乞うべきだ。食口の多くは未だに独善的すぎる。
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