2020年4月24日金曜日

今日の想い 1064

コロナだろうが何だろうがお迎えが来れば当然この世を去る。他人事のようにそう言ってのける自分に気付いて恐ろしく思った。この世を去るけれども地上生命の道理では何らかの外的原因はある訳で、何をもって地上を去るかは人間の霊的使命と関わりがある。地上に誕生する時にも地上で負うべき使命があるように、死(教会では死という概念はなく別の言葉を使う)という霊界への誕生にも、地上で得た実りをどういう霊的立て付けにするかを宛がわれて、その関係性で地上死の外的原因を用意する。だからなるようになる、と言いたいのではなく、実は真逆で、だからこそ現実の問題に対して、コロナウィルスに対して、能動的に対する意志を持つべきだ。既に多くの犠牲が供えられ犠牲は今の今でも増え続けている。生きている人間がこのウィルスとの闘いに真剣に臨まなければ、犠牲として供えられた何万柱は犠牲になった意味は何だったのかと問い続け攻め続けるはずだ。先ず食口が悔い改めることは、誰よりも世界に留まっている問題に対して責任を持つべきなのに、その責任意識と責任感情に欠けていることだ。ホロコーストはイエス様を受け入れず磔刑に追いやったユダヤ民族の蕩減?蕩減はそうなのかも知れないが、彼等に対してだから当然の報いでしょうと対するのは精神性を疑う。蕩減だと言い放てばすむ話ではない。コロナウィルスの蔓延は御父母様を未だに受け入れない人類に対する鉄槌?そう理解して言い放てば自分は神の側にいるとでも思いたいのかも知れないが、私はそう突き放す本人の穿った精神を見る。み言葉の本質を一つも受け取れないまま、自分が信じたい神のイメージという幻想を奉る為の黒魔術の道具に、み言葉が使われてはならない。御母様の指示があろうがなかろうが、中心からの指示がどうであろうが、食口は良心を取り戻して、先ずその良心の声に相対してほしい。人類に対する試練なのはその通りだが、それは神様御自身の試練でもあり我々が本物かどうか、更には祝福の価値を問われる試練でもあるということだ。

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