2020年5月23日土曜日

今日の想い 1070(高齢期で想う)

40年を超えて御父母様に侍り帰依してきた。私がいう御父母様というのは、おそらく殆どの食口がそうだと思うが、御父様のことであり、御母様は御父様あっての御母様だ。だから御父様がみ言葉でこう言っておられますと言われる御母様が御母様であって、私の言う事を信じて従うようにという御母様に新たに帰依するのは人生の大半を御父様に侍ってきた私の信仰観からはずれている、というより別物だ。今までの人生を一旦否定して何もないところから出発しろと言われるのと同じだから、できないというより有り得ないことだ。御母様の時代は御母様の時代であって、思われる通りに摂理を進められるのに異論はないが、自分の信仰観を捻じ曲げてでも従うというのは違う。先天時代を総括して後天時代を出発する必要があるように、既に老年期に入っている食口は、この世を去る前にこれまでの人生の総括をする必要がある。教会や御母様に対して、余った自分の時間をいろいろと評論するために使うのもアリかも知れないが、感情任せにそのことに意識と時間の大半を費やすのはほぼほぼ無駄だろう。そんなことよりは己の人生を振り返り自分なりの総括をして、残していることがあるなら補充する生活をする必要がある。この世を去る時に、禍根は後孫に残すか放り投げたまま、御父様神様任せで天国に連れて行ってもらえる等という下心で去るべきではない。霊界で行くべき自分の場所さえも把握し、先祖や御父様に報告すべき内容もしっかり整理して、霊界で何をもって神様に仕えるかも見届けてから、おもむろに霊界への道を辿っていく。それが聖和式が聖和式としての意味あるものとするために大切な条件だ。私にとって教会葬であれ家族葬であれ形には囚われず、或いは敢えてお決まりのそういう儀式を行わないという選択があっても問題ではない。問題は定められたXDAYに主体的能動的に望めるかどうかであって、それが霊界生活を主体的能動的に歩めるかどうかを決定するはずだ。地上生活という繭を脱いで霊界を自由自在に羽ばたこうとするなら、地上の歩みの霊的意味を意識的に捉えておく必要がある。五感を通して受け取る地上世界の表現にどれほど神様の真の愛の論理が表されているか、生活を通して発動される喜怒哀楽にどれほど神様の想いが現されているか、ほとばしる衝動を覚えながら、抑えられない堕落性を見るのではなく対象を求めてやまない神様の意志を見るか。それらの果実は地上で捕らえた私だけが報告できるのであり、私だけの霊的な広がりや深みや色合いや味わいで霊界を築き上げ、御父様はそこに尋ねて下さり、霊界に於いても偏在される神様と共に住まう。

2020年5月20日水曜日

今日の想い 1069

神様が本当に求めたのはアダムではなく、自らの実体であるアダムを通して実はエバを求めた。主体であられる神様の本当に求めた対象はエバであった。アダムという実体化した神様がエバと一つになりたかったのであり、一つになった愛の対象実体として子女を得たかった。イエス様は神の一人子として地上に現れればそれで事足りたのではなく、第二のアダムであるイエス様を通して実は相対を探し婚姻することが目的だった。しかしイエス様は相対を得ることなく地上を去られた。よって御父様は再臨のイエス様として理想相対を探されたのであり、探し出された御母様は御父様の相対であると同時に神様の相対の位置に立たれるべきだった。実は「だった」と過去形にすべきかどうか今だに悩んでいる。御父様側に立つ事実は御母様は未だ神様の相対には立たれていない。御父母様の三度目であり最後の結婚式は2013年の基元節に予定され、その結婚式こそ神様の結婚式のはずだったが、しかし2012年に聖和されてしまい御父様からすれば神様の結婚式は棚上げ状態のままだ。しかし御母様側に立つと御母様は既に神様の結婚式が為されて神様の相対に立たれている。それが御父様がおられない基元節で挙行されたのか、或いは御父様が訓読会の場で御母様と4人の責任者に対して強く叱責されたように以前に既に御父様の許可なく挙行されたのか、その辺りをどう理解するのか。私達は一問一答できるほどに神様に近くもないし、霊的無知から脱してもいない。わからなければ言われるままを受け入れるしかないとも言えるが、そうだとしても御父様の言葉を受け入れるべきなのか御母様なのか。天の御父様(神様)から天の父母様に変わったのは明らかに神様が結婚された背景でしか出てこない言葉だし、御母様の権威の立てようは御本人が神様の夫人だと認識する威厳に溢れている。ここから先のことは我々の詮索のしようがない。どこに付きどのような立場を取るにしても、どちらにしろ神界の動きを見守るしかない。

2020年5月10日日曜日

今日の想い 1068

コロナコロナと騒いでいるうちに、景色は既に初夏の様相だ。山肌のあちこちに山桜の薄桃色だけは認められたものの、仰いで見渡す満開の桜にはついに出会えなかった。この部屋からは窓越しに山の輪郭を辿ることができるが、今日の青空のせいで、映える新緑がなだらかな輪郭の下部を生命力で溢れさせている。自然は誰見ずとも季節季節の装いに一生懸命で、コロナ自粛要請に日本中から人影が消えても、だから尚更強く、その美と生命力を天空に開いて差し出している。今の人類の息を潜めた緊張からすれば何とも皮肉なものだ。科学による西洋医学は鉱物界の力に頼ってきたが、鉱物以上植物以下のウィルスにさえ太刀打ちできないでいる。やがてはなのかそれとも遠い過去のことなのか、植物界の生命の力で空を飛ぶことも地に穴を掘ることも可能な世界では、生命の様々な不可解をいとも簡単に解くことができて、ウィルスのことについても鉱物の力ではなく植物生命の力で瞬時に解けるのかも知れない。論理と鉱物原理が結びついているように、感情と植物の生命原理が結びついていると仮定できれば、こんな話も絵空事だとは思わない。み言葉は実に複雑で、一つ一つの言葉の概念さえも自分が認識していた理解を先ず疑い、何通りもの仮定概念を想定し、何度も頁を遡ってめくりながら進めていかなければ、早々に行き詰ってしまう。上っ面をなどっただけでは何も得られない。み言葉の字面(じづら)に相対しても、み言葉の本質に相対するのは至難の業だ、み言葉と格闘し身悶えしてこそ本質は少しづつ少しづつ形を現す。そのためにはみ言葉に対する姿勢を先ず問われるだろう。謙虚でなければ相手にもされない。人類はコロナ問題を前にして己の無力さに落胆している。科学の発達をあれほど誇らしく掲げて胸を張っていたものの、軽く足をはらわれて立ち上がれない。人類は今の現実を前に先ず姿勢を改める必要がある。見えない背後に対する謙虚さを学ばなければならない。天と霊界に対する畏怖の念を取り戻さなければならない。鉱物界と植物界に頭を下げなければならない。

2020年5月7日木曜日

今日の想い 1067

日本人は実に曖昧な民族だ。今回のコロナウィルス対応策を見るにつけつくづくそう思う。右か左かを明確に決断できずに成り行きに任せ、事態を眺めるだけで佇んだまま時を見過ごす。改憲議論でも決断して事が荒立ってしまうことより、何もせずに問題を先送りすることの方を選ぶから、いつまで経っても埒が明かない。黒船が来て開国したように、太平洋戦争に於いても、それまで決断できずに佇んだままどうにもこうにも道が塞がれてしまったので戦争に逃げただけのことだ。日本は決断したのではなく逃げた。決断できる意志がもともと備わっていれば戦争に突入することはなかった、と私は見ている。今回、武漢の実情がわかった時点で、何の措置もとらなければやがてどうなるかは見えていたはずだ。それにも関わらず成り行きに任せてしまう曖昧さを日本人は捨てられない。日本の教会とて同じことで、常にプッシュされて、すなわち外圧を受け続けて今の実情がある。それを絶対服従する意志だと納得させるのは先天時代までで、今は全体組織の恰好だけは残そうとするための言い訳でしかない。はたして教会サイドの外圧以上の外圧が我々に迫ってきたときに、組織の恰好を残せるかどうかだろう。このコロナ騒動で社会は大きく様変わりする。どれだけ過去に食べていたスイカを欲しがっても、先天時代には戻れないように、もはやコロナ以前には戻れない。この新しい時代に足を地につけて生き抜くには、生きる意味を明確にしてその意志を備える必要があり、意味を捉える意識を常に持つ必要があり、その私の意識は唯一絶対永遠不変の天に繋がっているという霊的柱が立っていなければ霊的に流される根無し草だ。祝福は天の本流に繋がって霊的柱を受け取る儀式であり蕩減棒や三日儀式は具体的秘儀だ。この混迷の時代、祝福の価値やみ言葉の価値はますますその光を増すはずだ。その認識を自己満足のみで捉えないように敢えて言うなら、御父様の言われる良心は胸のうちではなく丹田にある。丹田から発する意志の力が背後の良心と直結している。良心と意志と更に生殖器は三位一体でこそ天と直結して働く。どれひとつ曖昧であってはならないし、それぞれで暴走すべきではない。

2020年5月2日土曜日

今日の想い 1066

これが救いだ、これが赦しだと説明されても、確信と実感が伴わなければ言葉の鞘だけ受け取ったものの中味はない。けっして困窮した生活を助けてくれるとか病から救ってくれるとかの現実問題の救いという意味ではなく、さらに不安や恐れを解決してくれる救いという意味でもなく、敢えて言えば唯一絶対永遠不変の愛の存在感を得たい、取り返したいということだろうか。神様御自身が唯一絶対永遠不変の存在だ。その神様と私が何の関係性があり何で繫がれているかによって神様のそれらの属性を相続できるという。そういう観点に立ってその関係性(父子関係という関係)を示し、相続の可能性を差し出されたこと(神様の血統に接ぎ木されること)が再臨のメシヤである御父様の歴史的快挙だ。もちろん様々な問題を抱え何とか解決したいともがく私はその通りだが、存在の意味を知らされ神様との関係性を日毎に強くできること以外の問題は二の次の課題であり付録だと思って生きている。現実は人生の流れの中で抱え込んだり手放したりの連続だが、抱え込むことで、あるいは手放すことで神様との関係性をより深くできるならどちらにしろいい教材だということだろうか。実際は地上の問題にあたふたしながら天に文句を言いながら生きている訳だが、それでも既に切れることはない神様との親子関係にある地上を超えた私(夜の私、霊的私)が中心にあって、その私が人間として地上生活を送る私を運転している、あるいは見届けているという感覚だ。日本人である私は感情をあまり左右されたくない訳だが、地上を超えた私は韓国人のあの激しい喜怒哀楽を羨ましく見ていて、激しいだけに関係性はより強く深くなるはずで、その求める先にハナニムを見ている。周りの国にしてみればえらい迷惑な話だが、神様が関わらざるを得ないという意味でも自ずと心情をより相続できるはずだ。日本人とすれば正しいかどうかを先ず問うのだろうが、それよりは情が勝るのであり、信仰の在り様でも、教条的な日本信仰に対して情的な韓国信仰となる。長男の子女様は確かにハチャメチャな生活をしておられた。しかしどれほど堕落的生活であったと我々が見るとしても悔い改めて御父母様の前に帰ってこられたのであり、帰ってこられたことで良しとされ堕落しただとか失敗者だとかという話はされなかった。親子の関係性は教条的な問題を最終的には問わないほどに強いことを示された。自分の子供の救い、問題を起こした多くの二世達の救いもそこにあると、私は希望を未来につなぐことができた。