2020年7月30日木曜日

今日の想い 1076

日本食口が献金摂理によって供えられた犠牲は、真に天が受け取られた犠牲だったのか。献金というよりもヤコブの知恵を独善的に解釈した無理矢理のお金集めだった。だから実際は集金摂理と言ったほうがしっくりくるだろう。どれほど伝道実績が要求され家庭教会摂理が打ち出されようとも、集金摂理を達成した上での他の摂理だという意識は常に私達にはあった。エバ国家、母の国という全体が個人に優先され、いや個人は否定されて全体のみの意識を持ち動いていたので、組織のトップの意識と理解がそのまま駒である一人一人の食口の意識と理解であるのは当然だった。それは軍隊としては機能しても個々の内外の育成は犠牲にされがちだ。上の意識を無私の位置でそのまま受け取っているので自分の自我への責任すらも預けてしまって霊的成長は等閑だ。教条主義というMUST信仰のみで、自分の責任で行動し御言葉の本質を経験するというWILL信仰を認めないかその意識もない。そこに留まる限り、御父様は祝福家庭という摂理の戦いの駒を持ちたいだけだったということになってしまう。果たしてそれで善しとされるのだろうか。先天時代は確かにのるかそるかの摂理的戦いで、兵隊として駒に特化することも必要だったと思うが、後天時代に於いてもその意識のままでは天は嘆かれるはずだ。御父様は、天国に行くと信じて殉教したクリスチャン達が地獄にいるという話をされた。殉教した全てのクリスチャンがそうだとは思わないが、そのみ言葉からすると天国に行くと信じて肉体の死を選ぶことが即ち犠牲的精神ではないということになる。それは私達にも言えるのであって、供え物に口無しで言われるままに摂理に専念してきたとしても、それが即ち為に生きる人生となり自己の霊的成長に直結するということにはならない。それは誰に聞かずとも自分が一番よくわかっているはずで、本来自らの意志で与えて、愛を投入することで、み言葉の本質を経験し実を備えた私だという認識を得るはずが、実際にはそこに至っていない、というか至れない。信仰から認識に至らなければ、信仰してきたのではなく盲信の類のまま人生を終えることになりかねない。先天時代の集金摂理を歩んだ意味を全体で問うだけでなく、個々の位置で自分のみ旨としてどういう意味があったのか、或いはどう捉えるのか、内的認識を得ない限り位階の梯子は外されたままだ。後天時代を生きる段階にも至れない。

2020年7月16日木曜日

今日の想い 1075

人間という存在は打算的であり、常に損得勘定しながら次なる行動に出る。しかし食口は借金を抱えてまで献金する存在だから打算的とは言えないんじゃ、、いやいやそうではなくて、要請を否定する労力を使ってまで拒めないとか、いつも顔を合わす中心者との関係性を考えるとか、これに応えることで天国行の許可を得られるはずだとか、一般人以上に内外の損得勘定に余念がない。もちろん妄想の類もひっくるめての勘定ではあるが、、。結果生活不安を抱え国にお世話になるにしても、それでも自分の中では辻褄が合っていて損をしたとは思っていない。地上では縁のない安穏な生活は霊界でこそ約束されていると信じている。御父様は会場に詰め込まれて身動きできない私達を見回しながら、あんた達は欲の塊だよと口を開かれた。確かにその通りだろう。でもそれでいいと思っている。私という一個人にしても人類全体にしても、その所有権をめぐって神とサタンが蕩減条件という霊的通貨で取引してきたのは、復帰歴史を学べばよく分かる。次元は違えども勘定が働いている。エバはアダムと蛇とを秤にかけて蛇と交わり、間違いに気付くと手を返して更にアダムとまで交わった。始祖のいい加減な対応に負を負った人類全てが歴史を掛けて振り回される。そう思うと、自分の意志で行動しているようで、所詮先祖を含めた背後や高次の存在達の見えない損得勘定に踊らされているかのようで、人間とは改めて何だろうかと振り出しの問いに戻ったりする。

2020年7月4日土曜日

今日の想い 1074

年も上で信仰歴も随分経ているのに、年下で僅かばかりの信仰歴しかない者にとやかく言われる筋合いはないと思った。この感情を大人げないことと片づけられるだろうか。今では私にとっても多くの食口は年下であり信仰歴も短い。上記のような感情を引き起こされる場面がたまにある。意見を述べてくるのは歓迎するが、しかし態度や物の言い方は思慮があって当然だろう。自己否定なのか自我否定なのか、叩かれ蹴られ飯ももらえず、また散々怒鳴られさげすまされて献身生活を生き延びてきた。身体を壊し血の小便まで流し、ストレスの限界まで内外の自分を酷使してきた。先輩家庭も同じように犠牲的に歩んでこられたと思えばこそ、当然のように敬意を抱くし接するにも礼儀として態度に出る。しかしいつからか献身制度もなくなり、24時間内外を修練で鍛えられる場面もなくなった。日本のあの歩みの事を思えばアメリカの歩みは屁でもない。中心者も現場も、いつしかそんな苦労を知らない食口ばかりになり、言ってることもやってることもお花畑で仲良しこよしだ。実績をとことん追及され、追い詰められて追い詰められて活路を見出す、等と言うのはもはや死語に近い。あれもできません、これもできません、できないことが当然のように平然と言い訳し、恥ずかしさもなければ悔しさもないらしい。苦労の百科事典の、恐ろしくも誇れる教会組織はすっかり堕落してしまった。優しさで愛と馴れ合いを混同している。位相という天的階級のない誰もがペクソンだという平等主義に冒されている。人間は一度地獄を見てこそ天国を標榜するように、霊的開拓者としての祝福家庭がその気概において堕落すれば、当然結果世界である人類が地獄を見ざるを得ない。間違いを犯さなければというような、我良し的な教条的信仰で天国に行くと信じているようだけれども、敢えて誤解を恐れず言うなら、間違いを犯そうとも天国を築く者こそが天国に行く権利を授けられる。それは御父様のみ言葉でもあり私の良心でもある。

今日の想い 1073

良心は神様にも勝るとまで言われた御父様は、その本質を正しく受け取ってくれると私達を信じて語られたのだろうか。神様も霊界も、客観的に捉えようとしたのが科学的論拠を掲げる原理の立場だが、良心は自分の中にあり自分と共にあるのだから主観で認識して当然であり、客観的に存在するとかしないとかを問う意味もない。神様や霊界は信仰で捉えるけれども良心は信仰認識を必要としない。私達は信仰で捉えて御父母様に侍っているのか、或いは良心に従えば当然の事として侍っているのかどちらだろうか。御母様に対して反旗を立てる者は自分の信仰観からそうするのか、或いは良心に従うが故の行動なのかどちらだろうか。勿論、御父様のみ言葉とは異なるというのは信仰観から来る言い分だが、それは大義名分で本当のところは自分の内的叫びに従ったが故ではないだろうか。内的叫びが良心の声なのか自分の感情なのかはそれぞれの主観分野で何とも言えない。仮定となるが、信仰観と良心と感情が相互に作用した結果としてそういう行動に出ているとは思える。しかし今ですら大きくは三分裂し、そのどれにも組することができない多くの食口がいるのに、どうやって一つになる事ができるだろうか。前にも記したように、私達の標榜する天一国は王を中心として明瞭に位階の存在する国だ。よく使われる百姓(ペクソン)は私達庶民のことだが、王と百姓の間に位階があるのかないのか。普通あると思うのが至極当然だろう。百姓それぞれが主観的な良心を備え、それぞれが異なる意志を持つのであれば、まとめて一つにする王制はどう成り立つのか、どう成り立たせるのか。或いは現代の王制のように象徴的形式的な意味しか持たないのか。愛でもってひとつにするのはその通りだが、その為にどう組織に落とし込んでいくのだろうか。

2020年7月3日金曜日

今日の想い 1072

久しぶりに実家に帰宅。老親の安否確認並びにあばら家の状態も確認しておく。リフォームしたいのはやまやまだが、無理だといつも思う。部分的改修でどうこうできる状態はとっくに超えている。家長としてこの家とこの土地、そして故郷をどうするのか。摂理だ何だと大きな話はしてきたけれども、崩れそうなこの家ひとつどうにもならない。情けないかぎりだ。氏族メシヤが聞いて呆れるだろう。教会に籍を置いている日本食口は今どれ程いるのだろうか。そしてその中の何人が意志を備えた影響力を持とうとする食口だろうか。それは御母様や教会本部に対してものが言えるという影響力でも構わないし、また社会に対しての影響力でも構わない。もし何の影響力もない者達の集まりなら、摂理だ何だと大きな話はしてきたが崩れそうな家一つ手を付けられない私と同じで、ただ情けないだけの群れだ。正しいとか間違っているとかを、御母様に対して或いは原理の日本罪悪史観に対しても問うているが、実のところ人間はその思考如何によって行動を変えることはない。行動にはエンジンスターターであるところの何らかの衝動が必要であり衝動は爆発感情と言ってもいい。思考が先か感情が先か、思考を得て感情を起こす場合もあるし、感情がそれに合致した思考を得、論理を組み立ててしまう場合もある。さらに言えば、思考から感情を起こす場合も自覚していない自らの背後の感情がその思考を呼び寄せてもいる。み言葉を受け取っても、入教する人もいれば何の行動も起こさない人もいるように、意志に影響を及ぼす感情は潜在意識下に深く及んでいる。人間は自分のことすら理解できない不可解な存在だ。だから何をしても無駄だと言いたいのではなく、その逆でだからこそ意志がより重要であり、意識の光をよりあてる部分であり、神もサタンも意志を食べて意志に動く。私達は御父様の手足ではあったが能動的意志を捨て去った状態を続けてきた。御父様という神経系統を失った今は意志を発動し得ない四肢だけが取り残され動いている状態にある。行動しないのではなく行動できないという後遺症を病んでいる。論理では良心を取り戻し良心に従ってということはわかっていながら、切実なる神様の意志が繋がらない。衝動として点火しない。