2020年10月27日火曜日

今日の想い 1081

 コロナが生活環境を変えるだけではなく、新しい生活様式が国の環境をまるっきり変えてしまう。もうbeforeには戻れない。社会的集まりという集まり全てが否定される方向に向いている。高齢者にとっては、集まりで最も関わりがあるのは葬式だろうか。老親介護のために田舎に通っているけれども、誰それが亡くなったという話は聞くが、前のように葬儀の知らせがきて出かけることはない。後に家族葬を済ませましたという報告のハガキがくるだけだ。今までの様に亡くなったという感慨はない。今年は祭りという祭りもなくなり日本特有の季節感もなくなってしまった。失業問題、家計困窮等の経済問題は話題にあがるけれども、当然のように持ち合わせていた個や集団の感情や感覚を失いつつあることは誰も触れない。おそらく日本人は他のどんな国民よりもテレビを見ている。テレビというマスメディアに感情や感覚は寄り添い委ねている。震災や自然災害の情報はいち早く知らされるとしても、しかし実際はテレビというフィルターを通して情報に対する感情や感覚は全く異質のものを受け取っている。テレビが国民感情の主導権を握っている。日本の伝統や文化は形骸化したとは云えども、それでも一応立てる風は装っていた。しかしこの一年の一連の騒動で、そんな伝統や文化はコロナに勝てない、生きる上での只のお飾りだからという認識を露わにしてしまった。マスメディアは科学のみを信奉する無神論の立役者だ。そんな精神欠如の日本、古い感情が失われる日本で、新たな新しい感情が芽生えなければ日本は益々先細りになる。新しい感情の拠り所を何に持つかは、この国の繁栄の為に最も重大な課題だろう。形骸化した祭りではなく、日本の精神性を呼び起こす本質的祭り、要するに祭祀が日本には必要だ。反日で韓国の柱を建てようとするそんな他を卑下することで認識する情けない国の魂ではなく、日本人として生きること死ぬことの価値を活き活きと見いだせる日本の祭祀が必要だ。

2020年10月16日金曜日

今日の想い 1080

 あれほどに青年達を引き付け燃え上がらせた霊はもはや私達と共にはいない。当時の高揚感を忘れずに覚えている食口は、理想に酔って活動したあの日々を、夢でも見させられたかのような不思議な面持ちで振り返る。堕落始祖の末裔として地上の地獄にいることを堕落論を通してしっかり認識していたから、見届けることができない見上げんばかりの地上天上天国のイメージは、地上の現実とは逆に膨らませるだけ膨らましてしまった。しかしその誤解や妄想が崩れていくに従い、理想を見失ってきた現実がある。私達は地上に引き戻されて、かつての様にみ言葉から誤解や妄想を導き出すのではなく、み言葉の霊的本質的価値を見出せるように再び摂理の峠を登っていかなければならない。今振り返れば私達の目指した理想は外的なものに過ぎなかった、という総括を私自身はしている。堕落も救いも祝福も、真の父母についても実に表面的理解に過ぎなかった。だから祝福二世に対しても御子女様に対してもそして御父母様に対してまでも落胆せざるを得ない現実を見てしまうことになった。み言葉は本来霊的なものだ。しかし霊的無知である私達はどうしてもイメージとして捉えることで理解したものと信じてきた。実際御父様は私達の理解が幼いままであることを知っておられたはずだ。だからといってそんな先天時代の歩みが無駄だったとは思わない。外的イメージとして捉えて戦ってきた勝利内容は象徴的勝利として捉えることができるはずだ。アブラハム自身がアブラハム家庭の勝利を象徴的なものに過ぎないと理解していたわけではないように、私達は天国理想のイメージを象徴的だとは思っていなかった。そして一つの摂理的時代が終わったと認識できたとき新たな摂理が何かを認識しようとする。象徴的であったかどうかはそれぞれの主観に任せるしかないが、今までの歩みを総括しないかぎり新しい歩みに踏み入れることはできない。異なる御母様が捉える摂理に、御父様の摂理の延長線上にある食口はそのまま踏み込めないように、先天時代が終わったからといって、そのまま後天時代に入っていけるとは限らない。実は先天と後天との間に後天を歩む私を準備する中間的期間が必要で、様々な批判もこれまでの歩みを客観視しようとするのも、新たな摂理を用意する為の準備に過ぎない。名前を変えられた家庭連合に留まる者も、子女様が率いる群れに参加する者も、かつての私達が味わったような高揚感はなく、どこか冷めた感情で取り敢えずはそこに居るしかないと思っているだけだ。

2020年10月12日月曜日

今日の想い 1079

 韓国政府どころか信じて疑わなかった御父様御自身が、反日主義の立場で、偽造されたあれこれをさも歴史的事実のように話しておられた。もちろん御母様もそうで真偽を問うてみる僅かの隙間も日本食口に差し出されることはない。しかしだからといって、手のひらを返すように、原理からみ言葉から、果ては献身して全てを委ねて歩んできた自らの人生全般までも否定するというのは違う。同じように、何を言われようとも御父母様の言われることが全て正しく、そう信じることが戴いた祝福も意味を成すしサタン圏から逃れて天の主管圏に留まることができる、というのも違う。どうして原理でなければ非原理、繋がってなければ離れた堕ちたというように、極論思考に陥るのだろうか。私達は御父母様と一つになるように教えられてきたし訓練されてきた。しかし信じて疑わない立場を数十年経った今も頑なに持ち続けることが本当に愛することであり一つになる道だろうか。それが正道だとして、それでは私達は一体何を御父母様から相続したのだろうか。相続した内容は頑なな信仰姿勢だけなのか、或いは私の内面に変化や異なる衝動が認められるなら、それは御父母様との関係を害する悪神の囁きであって無視すべきものなのか。食口達には安易に御母様御母様と唱えることで、御父母様に従いみ旨に従っている自分だと言い聞かせて自己満足的な歩みに留まらないでほしい。御父母様が涙ながらの歩みをされたのなら、たとえ御父母様とは相容れない意見を持ったとしても、それでも涙ながらの歩みをすることの方が、素晴らしい素晴らしいと言葉を重ね続け、拍手し続けるより余程心情に通じると私は思っている。御父母様が反日の立場をとられることで、確かに日本食口は苦労するのであり、反日が正しいか間違っているかは別として苦労する立場に日本を立たせている。苦労することそれ自体が恨を重ねることであり、それが天の心情に通じるなら、敢えて苦労させるという千尋の谷に突き落とすことで試練を与えておられる、とも取れる。地上と霊界が逆説で繫がっていることを思えば、表面的により嫌うことで内的霊的により愛されているという論理が成り立つ。これを叡智と取るか屁理屈と取るか、、。H1様を言葉と感情で徹底して否定されながら、愛の減少感と恨をバネに飛翔してみろという悲願を御父様の涙目の奥に見届けたのは私だけだろうか。

2020年10月10日土曜日

今日の想い 1078

 広島から益田に向かう細い国道を、急峻な山間をくねくね登って登り切り、少し下った盆地に私の田舎は広がっている。年間を通して曇りの日が多く、陽の光が半減されて届き、そんな中で生活していると気持ちが塞いでくる。いつも見えない何かに怯えながら暮らしていた。小学校に上がった頃の出来事だったと思うが、ある日母が淹れたインスタントコーヒーを寝る前に飲んだ。おそらく濃い過ぎたのだと思う。神経が昂ぶって眠れず落ち着きを失ってしまった。皆が寝静まっても不快な興奮は冷めやらず、暗闇にじっとしていると魂が押し潰されそうな感覚を覚え、一晩中その嫌悪感にさいなまされ続けて明け方を迎えた事があった。その嫌悪感はそれ以来ずっと付き纏い、み言葉に出会うことで何とか救われたが、未だにその感覚は残っていて田舎に帰ると思い出される。人間は苦しいとか悲しいとか痛みの感情として覚えたとき何とか解決しようと意志を働かせる。もちろん嬉しいとか楽しいとかの感情を経験し、更なる喜びを得たいときも意志を働かせる。心の平安な者は幸いなりとあるが、内的戦いを主管することで手にした平安ならそうだが、戦いなしに漂う平安ならそれが意志を働かせる力には為りにくいだろう。私の意志は悪霊から逃れようとするものでしかなかったが、御母様の意志は積年の恨が基にあるようで反御父様として映るのは当然なのかもしれない。恨みと恨は別次元で考えるべきもので、恨みは感情に主管されたままだが恨は宿命的意志を発動させる動機(衝動)となる。御母様の意志が御父様の意志を超えるものとなるのかどうか。私の摂理への意志が御母様を超えるものとならなければ、どんなに論理で間違っていることを導き出しても、御母様に代わって摂理に対する責任を引き受けたことにはならない。小さい頃のあの忌まわしい体験が、私をして救いを求める意志に駆り立てた終末現象であったように、コロナ禍を引き金とする現実的混乱は、人類を救いへの渇望に駆り立ててくれる終末現象かもしれない。混乱から悪足掻きに、絶望から非力であることの自覚に、そしてやっと救いを求める意志の発動に至り、人間の傲慢さが悉く砕かれて神を求めるべき対象存在であることに気付くはずだ。死を前にして生の意味を問う姿勢ができるのであって、底知れぬ絶望を前にして真の希望とは何かを問う姿勢もできるはずだ。天国も霊界も自らの魂で自分が良しとする世界を築くべきで、誰かが作った天国は所詮借り物だろうし、御父母様が築かれた天国はそれこそ罪状を首にかけて視線を落とさなければ居所はない教会天国だろう。私は幼少期から青年期にかけて味わった、魂の混乱や魂の砕けてしまう不安に今でこそ感謝している。平安や平和の意味を知ったしあれが無ければ内面に平安を創造する力を得ることはなかったはずだ。その力は確かに霊界に持ち込める力だ。

2020年10月4日日曜日

今日の想い 1077(慰安婦の像、連合南部軍人の像、そして御母様の像)

 南部連合の首都だったリッチモンドには、数多の連合の軍人たちの銅像が町のそこかしこに座している。どの銅像も立派な土台の上に据えられていて、近くに行けば自ずと見上げる形となり威容を覚えるものばかりだ。それらの銅像が今窮地に立っている。ペンキでいたずらされたり中には倒され壊された像もある。昨今の黒人に対する一連の事件によって、歴史の遺産だったそれらが差別の象徴に挿げ替えられてしまった。市長(黒人)自らがそう発言してしまっているので遠からず処分されてしまうのだろうか。黒人の悲惨な歴史の道のりは決して蓋をされるべきものではないが、彼らの感情の爆発のままに行動に移すことは歴史を通して積み上げられてきた人種差別撤廃への道のりを否定し、元返すことになる。人間には論理人間、感情人間、そして意志人間という棲み分けもできて、どの部類に属するか、或いは強調するかが時代が動くこれからの摂理に関係することになるだろうと思っている。原理から入って信仰に至った多くの食口は基本論理人間が多いが、論理を先ず立てることに執着する以上なかなか御母様についていくのは難しいはずだ。しかし情の拠り所を求めて信仰に至った感情人間の食口は、取り敢えずは御母様に従うことに疑念は持たない。御父様のエスカレーターに乗っていたらそのまま御母様になった訳だし敢えてエスカレーターを降りて平安だった信仰感情を揺さぶられることは選ばない。私達が知って考慮すべきことは御母様は論理でもなく感情でもなく意志を前面に出すことを決意された意志人間だということだ。どの時点でそうなられたのかはわからないが御母様には確かに或る霊的存在(それが聖霊かどうかは私には判断できない)が関与されその使命に生命を預けておられる。今回の御母様の像についても、論理人間の食口には突っ込みどころ満載で食いつき放題だが、しかし批判はしても何もしない食口は無力で、御母様にとってそんな批判視線はどうでもよく使命に対してどう行動に移すか、何をやるかが常に御母様にとっての関心事だ。思うと韓国自体がそうで、30万もの慰安婦だとか徴用工だとか、像まで作ってありもしない事実をでっちあげ日本批判に明け暮れているのは、叩いた方が実利があると踏んでのことで、日本の解決は話し合いや説明で何とかなるのではなく、日本を敵にまわすと非が及ぶと思わせることだ。韓国より強くなり強く出れば一変に解決する話だ。行動に移し結果を残せば論理だの感情だのはどうにでもなるし、彼等にとってはある意味目的達成の為のツールでしかない。御母様を理解し同じ土俵に上がりたいのなら、氏族圏を集めてメシヤ宣言し、何々家の天正宮を建て、そして立派な自分の白亜の像を建てることだ。そんなことで復帰されるか?いや何もしないで考えあぐねるより行動に移すこと、実績を積むこだ。それに合わせようと必死で内面を鍛錬せざるを得ない背水の陣方策だ。それができないか疑念があるなら摂理に対する責任をどういう形で取るのかという良心の言葉が必然として自分自身に返ってくる。対案もなく批判に筆舌を尽くすなら御父様の語られる責任を果たすところの良心を疑う。レーニンの像が倒され、リッチモンドの軍人の像が倒されたように、清心塔が撤去され(移動され)、代わりに御母様に頭を垂れる像を建立され、御父様の気配を消すことで背水の陣を敷いておられるとしか思えない。惰性で御母様についてきた多くの食口は吹き飛ばされるかも知れない。