人生を歩む上での社会的な定型がある。小中高大と進んで就職して結婚して子供を産んで育て孫に恵まれ死んでいく。その路線をイメージされるままに進んでいくことが人の願いであり、それこそが幸せだと思っている。同じように食口は教会の取り決めを当てはめて、その教会路線に従って生きるのが幸せだと思っている。祝福を受け、選べない相対と仲睦まじく暮らし、子女をもうけて祝福まで漕ぎつけ、そして子供の家庭と孫に囲まれ聖和式をもって人生を終える。一方では祝福の価値を信じているというが、現実は相対の器量や性格を気にするし、愛されて平安な家庭生活を望んでいる。二世の祝福の証しを聞いても、優しい人で良かったとか、楽しく夫婦生活を送れてよかったとか、祝福の本質とは関係のない、一般人と同じ感想しかないようで、そんなこの世の平安を受け取るのが祝福かのように思えて、結局アボジの祝福の意義は何だったのかと思う。祝福の本質は、自分の好みを捨てて状況によっては嫌いな相対を宛がわれ家庭生活を出発するというように、平安とは真逆の荒波状況に身を置くのであり、それは正に愛されるのではなく愛を与える、すなわち犠牲になることが祝福の本質だ。真の愛とは避けたいことを甘受する犠牲そのものだ。真の愛は熾烈な内的闘いであり、それを隠そうにも隠せない感情の衝突や爆発であり、当然怒りや悲哀にも明け暮れる。そうまで打たれて初めて磨かれる霊性が立つ。祝福は時として地上の地獄かもしれないが、そこを通過した者しか望めない天上霊界を受け取れる霊的感性を備えることができる。にも関わらずギクシャクしないこと、ぶつからないことに四苦八苦するだけなら祝福を戴いた意味はないだろう。
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