2022年1月9日日曜日

今日の想い 1129

 日本の信仰は実は信仰ではなくて、信仰に名を借りた縛りがUC全体のイメージとしてあり、その取り決めを守らなければUC天国に入れてもらえないという、その恐れが縛りの表裏となっている。そこには信仰を持つことの喜びはない。取り決めを守ることに専念する意志とそれを守らないとどうなるだろうという不安の感情は、信仰を持つ喜びへとは向かわない。アボジは日本は忠孝の源だと言われたが、その従順な国民性が後天時代に必要とされる自主性と自我の成長を妨げている。二世は八割方がUCと距離を置いていると言われるが、距離を置かずにUCと一世である親の思惑の傘の中で生きている二割の方が本当に心配だ。UCと一世の親にしてみれば、距離を置いている八割の二世を心配しているのかも知れないが、実は縛りと恐れで自我を抑え込んでいる二割の二世こそが、その心魂を抑圧し人間性を否定しかねないほどの危険を孕んでいる。距離を置いて離れたともされる八割の二世の分までも祝福二世として期待を背負わされるからだ。アメリカは「私」を主張し主張しなければ追いやられる社会だが、その社会の中で日本的信仰を強いられる日本の二世はそのあまりのギャップに潰されてしまう。幾つかの悲劇を私の間近な周囲にすら見てきた。一方で主体性自主性を要求され、今一方で自己を否定する従順信仰を要求される。自らの精神の安定を図ろうとすれば、主体性自主性を否定して意欲のない魂の抜け殻人格を持つか、或いは従順信仰の在り方を否定してUCと親に背を向けるかだが、その狭間で揺れる精神的苦痛に喘いでいて救われるとはとても思えない。UC全体も一世もその根本的問題を無視して問題視していないのは、教条的信仰による心魂の抑圧、すなわち思考感情意志の働きに自由がなく、信仰による喜びがないから愛を紡ぎ出せずにいる。愛によらない形ばかりの献金も伝道も一体何の意味があるのだろう。一世はこの根本的問題を解決しなければ二世に対して大罪を犯すことになる。

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