2022年2月27日日曜日

今日の想い 1137

 日本国民はウクライナの現状を目に焼き付けて、我国家日本の現実にしっかりと目を向けなければならない。つい先日まで戦争なぞ起こりようがないと、きな臭い情報を一笑して過ごしていた。しかしかつての核大国であったウクライナは条約によって核なき平和国家に変貌したわけだが、裸になったらレイプされるんだということを国民一人一人が今身に染みていて、その悔悟と共に逃げまどっている。ブダペスト条約は無駄を通り越して侵入侵略を許してしまう甘い誘い文句に過ぎなかったわけだ。平和憲法を唱えているから日本は平和を約束されている、という盲目信仰を私達はこれからも続けていくのだろうか。いざとなれば日米安保があるしその為の血税も惜しみなく差し出してきたと、そう思いたいのは自由だが、結局は安保共同体制も自分の国は自分で守るという決意が前提の上だという至極当然の感性まで失っているのが我が国だ。台湾有事も尖閣有事も、そして沖縄有事も既に目前の危機案件としてある。にも関わらずどこまでも平和憲法信仰、平和ボケが治らない。いっそのこと北朝鮮から一発撃ち込んでもらって日本人の目を覚ましてもらいたいとまで思ってしまう。勝共運動に邁進していた当時の一世達は、平和ボケした日本に警鐘を鳴らし目覚めさせる使命があったはずなのに、しかし憂国の士から生活保護や年金を国から受け取るだけのおんぶにだっこ世代と化してしまった。もはや恥ずかしくて国を想い憂うことを許される価値もなく、となれば何を誇りとして生きているのだろうか。この混乱の世であれば尚更身を捨てて立ち上がる成約聖徒であるべきなのに、踵に噛みつく勇気もない。

2022年2月14日月曜日

今日の想い 1136

 金融バブルが萎むか弾けるのは膨らまし続ける風船がどうなるかを考えれば当然のことだが、では膨らんでいく金融に多大な影響を受け翻弄もされてきた経済がどうなるかの見通しはと言うと、これを語る者は意外と少ない。天宙創造過程に於いて空間の膨張と収縮を何度も繰り返して現在の宇宙がある。それは夜の宇宙と昼の宇宙とも言えるが宇宙全体の生命の呼吸だ。そしてこの社会の呼吸が経済だ。出金があれば入金が必要であるように好景気があれば不景気もある。社会の呼吸として好景気が大きければそれだけ不景気も底の深いものになる。社会の一般経済から見れば金融はお化けのように大きく膨らんでいるが、当然金融収縮に向かうときはその萎みようは数倍のG(重力)を受けることになる。今はドルが基軸通貨という社会認識だが、ドル換算した主要通貨の交換性があるから国家を超えた世界の物流は成り立ち、その恩恵を受けている。信用経済は通貨創造を許されている銀行によって成り立っているが、その資本一割内の枠を度外視して貸し出すことで金融は成立している。一千万の証拠金を出したとして一億も二億も貸し出すレバレッジなるものを差し出したのが、一般人には理解を超える金融工学の世界だ。問題は金融をここまで大きく膨らませて、果たして公の為に利しているかどうかだ。経済血液としての通貨が世界の隅々まで行き渡るという役目を金融が負っていて、その為の金融膨張だったが、平準化に向かうツールが富の偏りに使われ堕落したのは明らかに摂理に反する。よって摂理観からすればこのバブルは弾けて当たり前で、再度富の平準化の為の金融組み立てが為されるはずだ。しかし基軸通貨としての役目を果たすドルはあまりにも垢が付きすぎてしまった。ドルと通じる様々な国家通貨も同じように垢まみれだ。新たな経済は既存通貨に代わる何某かの原通貨を求めるだろうし、そのように経済摂理は新たな展開を見せる。

2022年2月7日月曜日

今日の想い 1135

 どれだけ信仰を強くして悪とされる欲望を抑え込み、表面は小綺麗に装ってもその内面はありとあらゆる欲の坩堝となっているのが人間だ。教条的信仰生活という美しい壺に抑え込んだとて、あらゆる欲のひとつも消えるわけではなく、抑え込むことの弊害は出てきて当然だ。一世が何とか綻びを直すとしても、次世代には溢れ出てしまうことになるはずだ。人間始祖の堕落をどう捉えるかにもよるが、アボジの勝利圏を信じるなら人類は堕落以前の状態を取り戻している。ということは内面の欲の坩堝を堕落の結果として捉える必要はないということになる。内面の欲を人間の本性として捉えることもできる。もちろん欲望の衝動のままに行動しろと言っているのではなく、それらの欲望を管理しどう使うかは、役目としての良心(良神)が宛がわれていて、だからこそ良心に従うようにという良心宣言を出された。御父母様が勝利圏を立てられて人類は堕落圏にはないので良心の御言葉を差し出されたということだ。40年を超えて信仰生活を続けてきて、今更ながら溢れ出そうになるほどの強い欲動を覚える。しかしそれが自分の汚さ醜さかと自らに聞いてみると、意外とそれはない。これらが消えて無くなると生きる動機を失うようで、かえってそれらの想いが愛おしくなる。良心がしっかり立っていれば欲望がそのままストレートに衝動的行動を取らせるわけでもなく、その溢れる想いを何らかの貢献というか供犠的行動や表現へと向かわせればいいだけの話ではある。それが簡単な話ではないことは分かっているが、ある意味純粋で幼い欲情らと、人類歴史を通して訓練され磨かれてきた良心の壮絶な一体化の上でなされる。人類の進歩的発見や発明者は奇人変人が多いというのも頷ける。しかしはたして教会は、堕落的あるいは危険とも思える存在を受容できるほどの器を持ち合わせているだろうか。祝福も交差交体祝福(国の違い宗教の違いを超えて)を提示されながら、同じ祝福家庭の子女同志に固執している限りまだまだ教会の器は小さいように思う。

2022年2月6日日曜日

今日の想い 1134

 食口の万物復帰思考はまさに共産主義の労働価値説そのままだ。労働に時間をかけるだけかけて実績を出すという、AI時代の進化から見れば古生代の思考のまま止まっている。共産主義を否定しながらも実際は労働価値説であって、愛を説き心情を説いているにもかかわらず活動や生活の現実に心情価値説は息衝いていない。共産政権が個人の異なる所有を否定し分配を基本とするように、献身時は所有している全てを捧げた上で共同生活が基本で個人の所有は否定されていた。共産社会が御菓子を等分する平等であるため、個人の欲望からの動機や発想が触発されにくいように、公的だとされる側に捧げることが善であり、その為地上の個人財産をほぼ否定するか否定されれば、共産社会と同じ停滞状況が蔓延してしまう。共産社会とさして変わらない教会社会の中にイーロンマスクも孫正義も育たない。ではどうすればいいのかという話だが、二世以降は全ての箍(たが)を外して個人欲を押さえつけるべきではない、というか彼等自身が箍を勝手に外すだろうし、ガラス天井を突き抜けるに任せるしかないだろう。一世が二世への言葉を持ち合わせないことに気付き、そこで初めて一世は、御言葉を教条的な側面からしか捉えていなかったことを理解するだろう。労働時間という概念は時間に主管される先ず空間ありき物質ありきの次元のことだが、発想は瞬時に起こり時間を超えた次元の出来事だ。デジタル社会もAI時代も、時間空間を超えた次元での発想が価値をもたらす。霊界を信じながらも唯物的思考と活動に留まるのは、結局神様とは別物を信じていることになるし、原理非原理と勝手に括り堕落圏だよそ者だとして許容しない。本当の万物復帰は、先ず御言葉の本質復帰と愛と心情復帰の上での事だろう。

2022年2月5日土曜日

今日の想い 1133

シニア世代の食口であれば、万物復帰に明け暮れていた時期があったはずだ。 朝早くから夜遅くまで走り回らされた。一度任地に降ろされたら走ってでも家々を回らないと、歩みを止めてしまうと飛び込む決意が地に落ちてしまってエンジンは二度とかからない。昔は生花を抱え、それが造花に変わり、またいろんな商材を抱えて日本全国を走り回った。中でも造花は、バケツに溢れるほど詰めて両手に抱えると、あまりにも目立つが為に休憩を入れることもできず、恥も外聞もかなぐり捨てて、無くなるまで走り続けるしかなかった。この短くない時期の万物復帰のトラウマは未だに癒えることが無く、当時の塞ぎこんだ気分や、追い詰められた不安や恐怖が、当時の状況と共に悪夢となって何度も何度も夢見を襲う。ある意味、意識無意識の狭間に居座る地縛霊と化して魂を蝕んでいる。今の私は何としてでも当時の自分を救わなければならないという思いがある。今救っておかなければ、その切迫感情だけが繰り返し繰り返し霊の私を襲い続けるだろう。食口達の中に、この万物復帰のトラウマが少なからずあることを知っている。一時は水産摂理の一環として立てられたレストラン事業も、その多くがビジネスではなく万物復帰の延長であるかのように自ずと身を追い込んでいる。兎に角走り続けろという強迫観念で営業を続けている。本来ビジネスであるなら、マネージャーとして、或いはオーナーとして、全体を俯瞰し将来的道筋も模索しながら、業種業態であっても、人材の応募把握であっても、資金の使い方や教育報酬であっても、自分の責任と理想を掲げながら管理し投資するのが当然だろう。しかしそんなことは二の次でとにかく走る続けること、営業を止めないこと、手足を動かし続けることにのみ意識の大半を費やしてしまって、結局毎日の営業の何処かの歯車に収まることで良しとしている。その万物復帰感覚から抜け出さない限り私の救いはなく、奴隷という霊であの世に移動することになる。

今日の想い 1132(公的私的)

 食口は公的私的という所有観念を歪に捉えたままここまで来ている。それ故に私的な面では成長、公的な面では発展という言葉は食口にとって縁遠いものだった。敢えて万物に対して公的なもの私的なものという線引きをしたものだから、公的なことに関して自分は関知すべきではないと思い込み、そこに責任感情を抱けなくなっている。今まで摂理として資金や人材をつぎ込んできたわけだが、その殆どは影も形もなくなっている。それに対してどこのどんな食口が悔しさを覚え責任を感じているだろうか。御父様御母様と涙ながらに祈祷を捧げながら、しかし瞼を開き顔を上げると、家庭円満の出来事やどうでもいい個人的幸せを見つけては、神様の恵みだと自己満足している、そんな報告ばかりだ。この程度の個人的あるいは家庭的満足の為に人生の全てをかけてきたのだろうか。こんなことの為に社会悪のレッテルを貼られながら数字だけを追いかけてきたのだろうか。ここまで精神が堕落したのはひとえに公的観念の欠如だ。教育されないまま、線引きされた私的所有にのみ関知が許されるという奴隷意識から抜けだせない。自由と責任は裏表であるように、どんな所有も公私の裏表がある。私的なものとして与えられたものは本当に私的側面だけだろうか。公的なものとして立てられた物事であっても、神様ではない誰かがタッチするはずだが、そこに私的感情が入り込む隙は今までなかったと言えるだろうか。また、どんなに私的に受け取ったものでも、どう使ってもいい訳はなく、使い方を誤ると負債を抱えてしまう。私の身体も、私の生殖器も、公的な所有観念がなければ瞬時に堕落するだろう。万物主管の範囲を広く大きくしようとすれば、それに合わせて自己の成長と主管能力を深くする必要がある。その為には自己への投資も必要になる。金もかけ良いものも食べて所有もしながら、万物と人材への認識を経験値を通して深めなければ、家計を遣り繰りすることに奔走するだけの貧乏人が、その意識のままで大きな事業を主管したり世界を主管することは実に乱暴な話だ。