2022年2月7日月曜日

今日の想い 1135

 どれだけ信仰を強くして悪とされる欲望を抑え込み、表面は小綺麗に装ってもその内面はありとあらゆる欲の坩堝となっているのが人間だ。教条的信仰生活という美しい壺に抑え込んだとて、あらゆる欲のひとつも消えるわけではなく、抑え込むことの弊害は出てきて当然だ。一世が何とか綻びを直すとしても、次世代には溢れ出てしまうことになるはずだ。人間始祖の堕落をどう捉えるかにもよるが、アボジの勝利圏を信じるなら人類は堕落以前の状態を取り戻している。ということは内面の欲の坩堝を堕落の結果として捉える必要はないということになる。内面の欲を人間の本性として捉えることもできる。もちろん欲望の衝動のままに行動しろと言っているのではなく、それらの欲望を管理しどう使うかは、役目としての良心(良神)が宛がわれていて、だからこそ良心に従うようにという良心宣言を出された。御父母様が勝利圏を立てられて人類は堕落圏にはないので良心の御言葉を差し出されたということだ。40年を超えて信仰生活を続けてきて、今更ながら溢れ出そうになるほどの強い欲動を覚える。しかしそれが自分の汚さ醜さかと自らに聞いてみると、意外とそれはない。これらが消えて無くなると生きる動機を失うようで、かえってそれらの想いが愛おしくなる。良心がしっかり立っていれば欲望がそのままストレートに衝動的行動を取らせるわけでもなく、その溢れる想いを何らかの貢献というか供犠的行動や表現へと向かわせればいいだけの話ではある。それが簡単な話ではないことは分かっているが、ある意味純粋で幼い欲情らと、人類歴史を通して訓練され磨かれてきた良心の壮絶な一体化の上でなされる。人類の進歩的発見や発明者は奇人変人が多いというのも頷ける。しかしはたして教会は、堕落的あるいは危険とも思える存在を受容できるほどの器を持ち合わせているだろうか。祝福も交差交体祝福(国の違い宗教の違いを超えて)を提示されながら、同じ祝福家庭の子女同志に固執している限りまだまだ教会の器は小さいように思う。

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