2023年7月27日木曜日

今日の想い 1247

 元日本会長の言葉だが、「心情的霊的に完全一体の真の父母」であるとか、「おふたりの本質的次元の心情の一体性を理解」だとか、おそらく責任者の大方はそんな同じ文言で食口に接していると思われる。さらに「御父母様の一体性を理解できなければ、御母様に絶対信仰絶対愛絶対服従の基準でついていくことはできない」という言葉は、文言をそのまま受け止めれば御母様に対して何の一言もなくただただ受け止めろということになるのだろう。食口は一体全体御母様に対して何を求め期待しているのだろうか。何も求めていないのであれば何を恐れて態度を改めないのだろうか。あるいは一体性を理解しているとして、今の姿勢や態度で本当に御父母様や御父母様の一体性を証できると信じているのだろうか。先ず一体性をどう捉えているのだろうか。御父母様の一体圏が内的霊的なものであるのに地上的な一体を持ち出すものだから、どうもその辺から凝り固まった信仰観、日本特有の協調圧力も加味されて全体主義的な信仰観が蔓延しているように思われる。私達は一体化を理解できなくてその意味を探りながら生きているのであって、わかったつもりで押し付けられた信仰観でもって闇雲に行動しているなら、それは妄信でしかない。本来アボジは絶対信仰絶対愛絶対服従は良心に対する言葉であり生殖器に対する言葉だと語られたのに、いつから御母様の言葉に対する絶対信仰絶対愛絶対服従となったのだろうか。反対派はそれなりのイデオロギーで反社だと決めつけているのかも知れないが、私達を社会一般の目を通してみたとき、不思議な集団を通り越して全体主義的な恐ろしい集団に映っていることは確かだろう。そんなメディアを信じて踊らされている堕落社会のことは無視して絶対服従で突っ走れというが、それが本当に自分の良心に尋ねて得た答えなのだろうか。神様についても霊界についても自分の判断はさておき教育されたイメージで描かれているように、御父母様の一体性も同じく教育されたイメージが先行し、それを自分の中で咀嚼しようともしていない。

2023年7月20日木曜日

今日の想い 1246

もし摂理的願い(伝道)や経済的発展(献金)を本気で遣り遂げようとするなら、今までの延長では到底無理だと先ず認識する必要がある。今までの延長とは中心者絶対(アベルカイン)であり、教条主義(アダムエバ)であり、財物供与と蓄財(公金)だ。この世の発展はイエスマンによってではなく自らの信念のもと主体的能動的に活動する者によっているし、この世の成功者は自らの欲望を否定するのではなく上手に目的のための動機付けとすることで社会貢献してきたし、給与や蓄財に至っては低いところで限定されている団体に一体誰が熱意をもって頑張ろうと馳せ参じるだろうか。今の食口は去勢され飼い慣らされた家畜の集団に過ぎない。あまりに酷い言いようだが事実そうだ。搾取するものがなくなれば捨てられる運命にある。内的霊的なことではなく、地上の現実的なことを言っているのであってそこは誤解しないで欲しいが、今回の問題が表沙汰になったからといって現実的解決を教権指導部は打ち出してくれただろうか。否、現実的問題に対しては全く力を持っていない。日本政府に物申す一言だに発してはいないし、生活苦に喘いでいても何の援助もしないしもし賠償を言い渡されても一円たりとも出さないだろう。蛇のように賢くと言うけれども、政府や世論に対してもそうだが教会に対してもそうで、狡猾なまでに知恵を働かせなければ祝福家庭はジリ貧だ。教会の指導部だって過ちを侵す同じ人間が立っている。アボジが言われた天国に行く者ではなく天国を築く者になるとは、受動的位置に立たずに能動的位置に立つことであり、全て言われるままの受け身の家畜にならずに力を持ち養畜する立場でこそ天国を築ける。そして地上天国が築けたとして、そこは誰一人不倫も離婚もなく婚前交渉もなく一夫一婦制の世界だと本当に信じているのだろうか。食口はいい加減目を覚まして現実を直視すべきだ。現実と理想の狭間で生きてこそみ言葉の力も祝福の力もより認識できるはずで、そうして初めて理想に近づいていける。現実を無視して理想らしきものに囚われ浮ついていたからこのざまだ。今回を教訓にしてどれほどの食口が目を覚まし、摂理への主体的能動的関わりを持ち始め、生殖器と丹田に重心を置けるだろうか。生きる重心が下手な考えの頭にあったり、薄っぺらい感情の胸にあったりでは事は絶対に為せない。意識的開眼をした者は、丹田に思考も感情も落とし込み、意志を起こして行動に出る。

2023年7月10日月曜日

今日の想い 1245

 今は家庭連合の時代であって、教会が名称を変えて家庭連合になった訳ではない。宗教である教会は既に解散している。しかし実態はというと家庭連合として出発するのではなく、教会が名前を変えてそのまま生き延びているし、皆の意識も先天時代の教会員のままであって新しく出発していない。だからそれぞれが一祝福家庭として出発して歩めばいいのであり、教会がどう言われようが解散しようが祝福家庭にとっては過去の教会のことだ。もちろん知らぬ存ぜぬを通すべきではないが、私達の意識として先ずそこに立ちその上で対処することだ。解散命令が出たところで家庭連合の実態は教会の延長に過ぎないので教会解散であり、祝福家庭に解散はない。メディアに、外部が知りえない、食口でさえ知り得ない内部事情が筒抜けなのは内部、それも幹部責任者の中に情報を外部に流している者がいるからであり、おそらくこうする以外摂理とは関係のなくなった反社会的な教会を正すこともどうすることもできないからだろう。しかしそういう認識を持つ責任者が正しく摂理を理解し家庭連合を理解しているとはどうも思えない。先に述べたように教会は既にお開きになっており、家庭連合は宗教認可をもらう必要のない祝福家庭の集まりに過ぎない。そうなると先ず家庭連合という名前だけの宗教団体から脱退すればいいだけで、宗教団体に留まることに執着する必要は全くない。御母様に絶対服従を立てないのかと詰め寄られそうだが、30年も40年も御父様に従い、御言葉を受け、長い信仰生活で心情を魂に刻みつけながら今があるのに、御父様に向かわせない今の御母様にどう情を向ければいいのか。御母様の言葉を受け入れ情が納得するまで更に30年、40年も新たな独生女信仰を立てていくのだろうか。私は中心者や古い兄弟が御母様御母様と口にするのを見るたびに、心にもないことをと白けてしまう。確かに原理という論理で知性を触発されて信仰を持つに至ったけれども、入教当時の内面と今の内面は全く異なっていて、原理で繋がっている部分はごく一部で、多くは心情で繋がっている。だからどれだけ言葉で説得されても新しい信仰を持てるはずがない。しかしだからと言って御母様の精誠の実績を否定している訳では全くないし、理解できないかも知れないけれどもそれはそれ、これはこれだ。私の理解は、今の御母様は教会組織がなくなれば離れていく兄弟の為に、敢えて教会を残す使命を認識しておられるということだ。おそらくそういう兄弟の為に外的な宮殿が必要なのだろう。

2023年7月8日土曜日

今日の想い 1244

 御母様の発言が教会反社を裏付ける言動としてメディアに取り上げられている。事件から1周年だから、それでなくても重箱の隅をつつくようにでもネタを探していたはずで、教会反対派の喜びようは手に取るようだ。これで一気呵成に文化庁の認可取り消しに向けて要求を強めるはずだ。それにしても教会側の対策の何と御粗末なことか。そんな発言をされることは最初からわかっていながら、御母様に対しては何も言えないし結局誰も責任を取る者はいない。側近や責任者は教会解散になるのを願っているとしか思えないほど全く何もしない。中心者が集められてお話を聞いて頷いて終わり、ただそれだけだ。情けないにもほどがある。御母様に対して、首を切られようが怒号を浴びようが一言でもすべきだと、中心者の中に決起する両班でも侍でも誰一人いないのだろうか。教会組織は御父母様を頂点に戴く独裁組織であることはわかっている。そうなると組織を最も支えている者が何も言わなければ誰も何も言えない。そして最も支えている者は明白に日本の食口だ。こうなる前に日本からの献金をそれなりに閉めるか調整できていれば、日本食口の声を聞いてもらえる素地ができたはずだ。しかしそうは言っても韓国の中心者を日本各地に迎えた時点でお手上げ状態、日本の教会は事実上韓国に侵略されたということになったのかも知れない。日本食口はこれだけ犠牲的にも献金し続けてきたしそれは必ず天に届くはずだ、と当然のように信じている。しかしそれは本当の犠牲でもないし言われたからそうしただけで、自発的能動的な思い入れのあるものではないだろう。悲しいかな食口は自覚がないけれども、決して喜び勇んで献金してきたわけではない。自覚がないだけで、積もり積もって蓋を閉じて見ることもない悲痛な感情が溢れそうになっている。その恨みが爆発した訳で、メディアの問題や反対派の問題はただの表層に過ぎない。もしメディアや反対派が今回の根本的な問題であるなら、全食口がこぞって発言もするだろうし徹底抗戦に臨むはずだ。しかし誰も知らぬ存ぜぬだし、先ず中心的柱が立ちそうもない。

2023年7月6日木曜日

逍遥から本殿に向かって 24.

 食口は性に対してどれだけ見ず触れずを貫いたところで、夫婦であろうがなかろうが公の目の届かぬ地上のいたる所で性は繰り広げられている。さらには誰彼構わず、私利私欲を盛るだけ盛って関わらせている。それを不純だとか汚いとかレッテルを張り付ける一方で、同じ人物が誰よりも裏の顔を持ち行動しているのが人間の実情だ。そんなことは思いだにしないというような風情を装う立派な韓国の先生方でさえ、表面に現れる噂ですらいろいろ耳にしているのに、水面下の実情がどれ程のものか今となっては知る由もない。しかしそんな話を聞いて私が抱く感情は皆のそれとは違っていて、誘惑に負けた信仰の弱い人だという思いではなく、天罰をものともせず縛りを超えて行為に走らせてしまう意志や衝動とは一体何だろうかという疑問だ。それは、アボジが「裸の女性が布団に入ってきても生殖器を微動だにさせない」という話と、御落胤騒動を含めどれほどの女性と関係を持ったのだろうかという疑問が事ある毎に思い出されるのとリンクしている。私の結論は、どれだけ考えても答えは地上にはないし、私の知情意を超えた混沌の夜の領域のことということになる。ひとつ言えることは、受動的である誘惑に対しては断固関わりを持たないが、意志を備えた能動的な衝動であれば信仰的縛りを超えて行動に出る、という言い方はできるかも知れない。意志を備えたとは摂理的な天の願いを受けること、と言えばいいだろうか。タマルがそうでありマリアもその意志を持って行動している、はずだ。その場合、その時代に於いては認識されないどころか存在を忘れ去られるほどの世代を経て初めてその功績を認められるようになる。私達は余りにも摂理を舐めていた。どう見積もっても一代や二代で地上天国を迎えられるはずがない。それはしっかり認識すべき点だが、アボジが示してくださった祝福を通しての血統転換が、本然の神の元に帰ることが唯一できる夜の神様の秘儀であることは間違いない。堕落がなかった位置に復帰された私達だからこそ、性に聖なる霊的息吹を吹き込むことが出来る。その認識が私の40年を超えて信仰を重ねてきた知情意の結実だ。

2023年7月4日火曜日

逍遥から本殿に向かって 23.

 地上生活で内面として捉えていたものが、霊界生活では外的環境として現れるように、地上と霊界は逆接関係で繋がっている。いつも記しているように、外的には病気になることで健康の有難さを切実に内面に刻むことで、実は霊界生活で誰よりも健康的環境を用意できる。性は愛の外的な果実のように思えるけれども、性の解放によって人間の自由を受け取れると単純に考えるとしたら、それは本質を理解していない。断食すれば食べ物が慕わしくて慕わしくてたまらないという経験をするが、アダムエバ問題の大罪認識から家庭を出発するまでの性愛の禁止という縛りを食口に課すことで、当然のように異性への慕わしさをより強く経験する。食べ物のように万物に関することであれば直接に霊に関わることではないけれども、性は相手との魂以上の遣り取りであって直接的に霊に関わってくるのであり、そうなると食べ物(万物)欲と性欲は同じに扱えないことがわかる。すなわち断食で万物への尊厳を学ぶことはできるとしても、性欲を抑えて性への尊厳を学べるとは思えない。性を通して彼岸を見る、と以前述べた。彼岸ではあるけれども正確には霊界ではなく無形実体世界を超えた神界に通じている。ただ霊界に尋ねることで創造行為に至るのではなく、創造はインスピレーションを超えたインチュイションの領域、すなわち神界の領域であって、だから昼の神様の領域ではなく夜の神様の領域となる。アボジがどのような経緯で祝福の秘儀を受け取られたのか。すべてを悟性で理解されて、というのは昼の神様の知情意の領域となるが、そうではなく夜の神様の領域でこそ祝福の秘儀は見出されたはずであり、それは地上の道徳観倫理観で測れる路程であるはずがない。私がどれほど尋ねても、40年を超えて尋ねても理解できないのは、私達が神界の状況については何一つ知らされてはいないからだ。夜の神様の認識、夜の神様に至る授受作用は知情意の悟性によるものではなく堕落のない位置で為される性であり、高みに送られる高揚を自覚しながら、更にその高みを突き抜けて、神界に到達する神聖なる高揚を体恤してこその絶対だ。尊い生命の誕生に性が関わりながらもその性の尊厳を見出せず、先天と同じように見ず触れずのままでいいのかどうか。サタンが主管してきたように、関わればほぼほぼ堕落への道を辿ることになるのは承知の上で、それでもという思いが私にはある。