食口は性に対してどれだけ見ず触れずを貫いたところで、夫婦であろうがなかろうが公の目の届かぬ地上のいたる所で性は繰り広げられている。さらには誰彼構わず、私利私欲を盛るだけ盛って関わらせている。それを不純だとか汚いとかレッテルを張り付ける一方で、同じ人物が誰よりも裏の顔を持ち行動しているのが人間の実情だ。そんなことは思いだにしないというような風情を装う立派な韓国の先生方でさえ、表面に現れる噂ですらいろいろ耳にしているのに、水面下の実情がどれ程のものか今となっては知る由もない。しかしそんな話を聞いて私が抱く感情は皆のそれとは違っていて、誘惑に負けた信仰の弱い人だという思いではなく、天罰をものともせず縛りを超えて行為に走らせてしまう意志や衝動とは一体何だろうかという疑問だ。それは、アボジが「裸の女性が布団に入ってきても生殖器を微動だにさせない」という話と、御落胤騒動を含めどれほどの女性と関係を持ったのだろうかという疑問が事ある毎に思い出されるのとリンクしている。私の結論は、どれだけ考えても答えは地上にはないし、私の知情意を超えた混沌の夜の領域のことということになる。ひとつ言えることは、受動的である誘惑に対しては断固関わりを持たないが、意志を備えた能動的な衝動であれば信仰的縛りを超えて行動に出る、という言い方はできるかも知れない。意志を備えたとは摂理的な天の願いを受けること、と言えばいいだろうか。タマルがそうでありマリアもその意志を持って行動している、はずだ。その場合、その時代に於いては認識されないどころか存在を忘れ去られるほどの世代を経て初めてその功績を認められるようになる。私達は余りにも摂理を舐めていた。どう見積もっても一代や二代で地上天国を迎えられるはずがない。それはしっかり認識すべき点だが、アボジが示してくださった祝福を通しての血統転換が、本然の神の元に帰ることが唯一できる夜の神様の秘儀であることは間違いない。堕落がなかった位置に復帰された私達だからこそ、性に聖なる霊的息吹を吹き込むことが出来る。その認識が私の40年を超えて信仰を重ねてきた知情意の結実だ。
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