地上生活で内面として捉えていたものが、霊界生活では外的環境として現れるように、地上と霊界は逆接関係で繋がっている。いつも記しているように、外的には病気になることで健康の有難さを切実に内面に刻むことで、実は霊界生活で誰よりも健康的環境を用意できる。性は愛の外的な果実のように思えるけれども、性の解放によって人間の自由を受け取れると単純に考えるとしたら、それは本質を理解していない。断食すれば食べ物が慕わしくて慕わしくてたまらないという経験をするが、アダムエバ問題の大罪認識から家庭を出発するまでの性愛の禁止という縛りを食口に課すことで、当然のように異性への慕わしさをより強く経験する。食べ物のように万物に関することであれば直接に霊に関わることではないけれども、性は相手との魂以上の遣り取りであって直接的に霊に関わってくるのであり、そうなると食べ物(万物)欲と性欲は同じに扱えないことがわかる。すなわち断食で万物への尊厳を学ぶことはできるとしても、性欲を抑えて性への尊厳を学べるとは思えない。性を通して彼岸を見る、と以前述べた。彼岸ではあるけれども正確には霊界ではなく無形実体世界を超えた神界に通じている。ただ霊界に尋ねることで創造行為に至るのではなく、創造はインスピレーションを超えたインチュイションの領域、すなわち神界の領域であって、だから昼の神様の領域ではなく夜の神様の領域となる。アボジがどのような経緯で祝福の秘儀を受け取られたのか。すべてを悟性で理解されて、というのは昼の神様の知情意の領域となるが、そうではなく夜の神様の領域でこそ祝福の秘儀は見出されたはずであり、それは地上の道徳観倫理観で測れる路程であるはずがない。私がどれほど尋ねても、40年を超えて尋ねても理解できないのは、私達が神界の状況については何一つ知らされてはいないからだ。夜の神様の認識、夜の神様に至る授受作用は知情意の悟性によるものではなく堕落のない位置で為される性であり、高みに送られる高揚を自覚しながら、更にその高みを突き抜けて、神界に到達する神聖なる高揚を体恤してこその絶対性だ。尊い生命の誕生に性が関わりながらもその性の尊厳を見出せず、先天と同じように見ず触れずのままでいいのかどうか。サタンが主管してきたように、関わればほぼほぼ堕落への道を辿ることになるのは承知の上で、それでもという思いが私にはある。
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