2024年7月10日水曜日

今日の想い 1306

為に生きるというみ言葉は為に生きる意志を備える自分を生きるのであって、他の為に自分を失うこととは異なる。アベルや誰かに合わせて自分を失うのではなく、あくまで自分という主体が中心であること、そこを無視して表面的に繕っても自らに犠牲を強いることでしかなく為に生きる精神とはならない。先にも述べたように日本人は主体なる霊が立たない、或いは立てども霊の影が薄いものだから、本人は為に生きているつもりが実は振りをしているだけの可能性が高い。日本人の精神性を紐解くのに三島由紀夫はもってこいの人物だ。三島は論理にも長け美意識も人一倍強い作家だった。しかし彼自身が日本的とされる在り様に心酔する姿勢からわかるように、内面に主体なる霊を立ててはいなかったはずだ。西洋的キリスト教の死に対する認識と、東洋的日本の死に対する認識は、主体なる霊のあるなしが関係していて異なってくる。彼の自刃という決起は、本人の主体的行動によるものだと思われがちだが、実は自分の中には見出せない崇める霊的存在、彼の場合は特有の民族霊が彼の魂を操っていてそういう行動に出たということだ。日本武士の切腹行為もまたそうであり、日本軍の特攻隊精神も同じで自らの魂の主体を他に預けているからそういう行動を取ってしまう。見えない日本の民族霊に従っていれば、その願いに応えられず覚える孤独感情を忌むものとし、それを辱(はじ)として日本人は死以上に嫌っている。それはみ言葉の意味する他の為に生きると同じものかというと全く異なっているのだが、アボジに向かうべき自分の在り様も主君や天皇に向かう日本民族の在り様も、方向性が異なるだけで同じ犠牲精神だと捉えてしまっている。良心宣言で明確にされたように、自分の外の存在に主体を置いてその隷属存在となるのではなく、自らの内なる良心こそが主体なる霊として立つべきであって、他の或る霊的存在に魂を預けるべきではない。日本人は異邦人だと言われれば気に障るのはわかるが、日本人である私達の中に歴史を通して関与してきた民族霊による内的教育が厳然として日本人に影響を与えていて、アベルから言われたことを鵜呑みにしたり周りに合わせて行動する村意識の性品もその一つだと思う。日本を出てみればわかるのだが、海外の食口からみると日本食口の在り様は異様に見えて理解を超えている。しかしお世話になっているのは事実だから御上手を言って誤魔化しているものの、内心受け付けない。しかしそういう日本食口の染み込んだ性品を理解したうえで訓練された私達であって、私達の中に良神が立てば摂理に対して多大な貢献ができる。ほっておかれれば日本人は八百万神に従う異邦人であって、主なる神から見れば見放される民族かも知れない。しかしアボジはサタンの手中にある日本人を中心摂理に用いられた。そこに込められたアボジの心情をしっかりと汲むべきだろう。蓮の花の白は沼の中から茎を伸ばして開く。泥水で濁っているのにどうしてあれほどの純白を差し出せるのか。濁りに濁っている私と日本人の魂。それは得体の知れない数多の霊が入り乱れる泥沼そのものだ。もしドロドロした私の魂からあの純白を咲かせることができるなら、私の魂は光り輝き、拾って教育して下さった御父母様はどれほど日本食口を誇らしく思われるだろう。

2024年7月7日日曜日

今日の想い 1305

お前は既に死んでいる、ではないが日本は既に詰んでいる。モノが高い、インフレだと騒いでいるが、覚悟すべきインフレの津波はこれからやってくる。モノが高くて困りますと愚痴で言えるうちはまだ余裕であって、津波が襲ってくるとどう生き延びるかに必死で愚痴っている暇もなくなる。今、日本全体に責任を持ち日本の未来を心配して施策を打てる人は数えるほどでもいるだろうか。少なくとも政治村や官僚村には一人もいない。誰も自分が村に居座ることしか考えておらず日本のことなどどうだっていい、それが言い過ぎなら居座る為に精一杯で日本をどうすべきかにまで思いが至らないと言ったほうがいいのか。日本で生活しているなら、インフレの高波を受けながらこの潮位はこれからどうなるかしっかりアンテナを立てて感知してほしい。日本政府は日銀を含めて何の対策も立ててはいないし立てられない。アメリカの言いなりが身に沁みついていて、国民にどれほど負担を負わせようとも何もできない。国民に向いていないなら政府のやることはことごとく反国民的政策でしかない。これだけの通貨安であれば他の通貨に逃避するのは自明の理で、そうなると円は更に暴落して危険域に入っていく。今までのデフレマインドに慣らされたままでは来る大津波に流されるしかないかもしれない。しかしこの混乱期、激動期に立ち向かい、人生のダイナミックさを楽しむ者も当然でてくるのであり、性根の入った食口はそこでこそ頭角を現してほしい。解散がどうのと政府もメディアも騒いでいたが、そんな政府もメディアも立ち行かなくなって倒壊するのがこの大津波で、日本はスクラップアンドビルド、全て壊して立て直されるのが日本の摂理的運命だ。

2024年7月2日火曜日

今日の想い 1304

イエスは彼に言われた、「私に従ってきなさい。そして、その死人を葬ることは、死人に任せておくがよい」。マタイ伝 8章21~22節

確かに自分は原理を通して死生観を立てることができた。しかし最初に友達に誘われて原理講義を受けた時から、観を立てるというようなそんな大層な意志を持って原理に対峙してきた訳ではない。私自身は生きることも死ぬことも相当に悩んではいたものの、ここから幾らかのヒントは得られるだろうくらいしか思わなかった。それは献身生活を始めてもそう変わりはなかった。初期に経験した聖霊体験以外、私の内面の変化を与える特別な機会はなかった。それでも敢えて信仰を捨てるでもなく50年経って見ると、自分は自分としての死生観をこの道を歩むことで立てることができたと思える。生死の意味と指針なくしてそれでも生きて、そして死を受け入れている周りの人々は私には理解できなかった。私にすれば生きて地獄、死ぬにしても地獄だった。三島がどれほどその天才的筆力でもって生について、そして死について、その観を立てる為に綴り続けても、彼は所詮問いを立てることで終わっている、と私は思う。私が中一の時に彼が引き起こした度肝を抜く事件でさえも、それは生死への問いを日本人全てにぶつけたかったように思える。日本人は未だ主体なる自我を持ち合わせていない。大方の日本人は主なる神以前の神々の状態と同じで主体なる自我がない、すなわち生きた霊として立っていない。知人が死に家族が死に誰もが死ぬように私も死ぬ、としか一般の日本人は言えない。周囲の死も自分自身の死も同じ死だと捉えている。しかし死生観の真に立っている者はそうは言わない。ある意味、毎日のように新しく生まれ毎日のように死んでいくものを内なる私に見ながら、肉身の死を超えて生き続ける主体なる自我が存在する。日本人の死生観は、キリストによって生かされた多数の人類とは異なり、人類がキリストに出会う以前、すなわち古代人と同じ霊性に立っている。八百万の神信仰とはそういう意味だ。古代人は主体なる自我を備えていない。真の父母に見え、祝福によって生きた霊の種を戴き、信仰生活を通して主体なる霊である自我を芽吹かせ、更に発育させてきた祝福家庭の価値はそこにある。