2024年7月30日火曜日

今日の想い 1310

 ドルが兌換通貨だったときはドルを価値判断基準として使えていた。勿論金地金自体が絶対価値を持ち合わせているかどうかは議論の余地はあるが、腐らないし錆びないし何年たってもほぼ経年劣化はしないから、価値判断基準としての役割は備えている。しかし今のドルは兌換ではなく相場制通貨であって価値判断基準としての権威は備えていない。しかし兌換をやめたニクソンショック以降からもずっと変わらずドルを価値判断基準としている。ドルを基準にして価値判断することに慣れ、そこから離れられないでいるからだ。そしてその現実が今の相場を見誤らせる。さしてドル通貨増刷をしていなかったリーマンショック以前は、相場制であってもドルは安定していたのでドルによる相場判断に大した狂いはなかった。しかしリーマンショック以降の緩和政策(QE)によってドル通貨量は爆発的に増えている。血液をどこまでも水で薄められたと同じドル通貨で価値判断をすることは意味がないどころか極めて危険だ。そのことに気付いていない経済評論家や投資家が多く、そんな彼等が垂れ流す情報を鵜呑みにしていれば資産は必ず弾けて露と消えてしまう。相場が上がった下がったというのは当然市場の通貨によって表される。日本では円で表されるしアメリカではドルで表される。しかしその表記通貨が相対的であって上がったり下がったりしているのに、それも上げ幅も下げ幅も大きいにもかかわらずそれを基準にして判断することを良しとしている市場自体が眉唾ものだということだ。通貨不信が蔓延するに従い、人々は必ずより安定的でより絶対的な資産へと流れていく。そんな話を或る兄弟にすると、ではそれが金や銀の現物だとしてもそれを集めてどうするのか、宮殿でも建てるのかという頓珍漢な質問が返ってきた。では100ドル札を積み上げてどうするのか、焚火が御焚き上げでもするのかと逆に質問した。未来永劫通貨で食糧や生活物資を求めることができるという、ドル通貨信仰であり円通貨信仰に縛られている。

2024年7月26日金曜日

今日の想い 1309

暑い夏が日本を襲っている。夏の猛暑で骨の髄まで熱に晒される。この環境下では普通頭は働かない。それなりに論理を働かせる知能人、知識人であっても生き延びるのに精一杯で、暑い暑いの繰り返しで頭は回らない。ここ数年の夏は猛暑続きで冷夏という言葉を長らく耳にしたことがないが、このまま地球は強い熱を浴び続けるのだろうか。人類が科学技術の発展を遂げたように、魂の知の部分だけを特化させて使ってきたから、感情や意志の部分を等閑にしてきた近代がある。これからも夏の暑さが和らがないとなると、知的活動以上に霊的感覚を研ぎ澄まし、感情と意志を差し出すよう仕向けられることになる。地球の温度が上がり、人間の平温が上がると環境はどうなるのだろうか、人間の体質と社会はどうなるのだろうか。アボジは人間の体温が上がることを示唆されていたが、そうなると確かに体内の病原菌は死滅して健康にはなるかも知れない。しかし本当の願いはというと、熱の中で霊的感性の触指をこの皮膚を突き破って伸ばしていくことだ。連霊性時代に生きる人類はこの触指が必要不可欠だ。地上霊界の両感性を開花させ、足場をどちらにも置いて生きてこそ人間の本来の目的が見えてくる。地上界という表に生きると同時に霊界という裏を生きる。霊人達にしてみれば霊界という表を生きながら地上界という裏を生きる。堕落によって、霊的感性を封じられて以来の歴史を長く生きてきた人類にとって、これからの時代は何もかも新鮮であるけれども、しかし新しいものに踏み込む恐れが災いとなって足枷になっていく。

2024年7月25日木曜日

今日の想い 1308

 生きる為に食べるのであって食べる為に生きるのではない。これは納得すると思うが、ではこの設問はどうだろうか。愛する為に生きるのであって生きる為に愛するのではない。食口であれば当然のように頷くとは思うが、世間一般に問えば返答に言葉を詰まらせる。先ず愛という言葉は広範すぎて食べるというような万民が認識する具体的行為とは異なっている。さらに日本人にしてみれば愛という言葉は意志行動の言葉というよりは普通は感情の言葉として認識している。だから動詞として使う愛するとなるとどうも表立っては言えない行為と捉えてしまいがちだ。だから愛するという言葉より為に生きるという言葉が腑に落ちるし誤解を生まない。しかしそうだとしても為に生きる為に生きるというのも多くの日本人は納得しない。為に生きることすなわち自分を犠牲にすることで、ボランティアという良心的気分に留まるものは良しとしても、犠牲は否定するだろう。現代の日本人が宗教を胡散臭く感じるのは、唯物主義に毒されてそうなのではなく、それ以上に愛に帰する犠牲に対する認識が貧しいか間違っていて、精神を病むか憑りつかれた異常者と見るからだ。サクリファイスの語源は聖なる儀式をすることであり、ヴィクティムの犠牲とは異なっている。そして食口もさして変わらず犠牲的精神を為に生きる愛の行動とは受け取れず、捨て石としての自己の痛みと見做し、頭では受け止めても内心は嫌っている。犠牲の本質は次元の異なる別の意味があるのだが、それは今のところ棚上げしておいて、犠牲という言葉を敢えて使わずに良心に尋ね良心の願いに生きると認識するところから出発すべきだ。たとえアベルからきた願いであっても、自分の良心が納得しないものに促されて流されるべきではない。天の願いはアベルから来るのではなく良心が私を突き動かす内的衝動だ。

2024年7月15日月曜日

今日の想い 1307

 SPに囲まれながらも彼は拳を突き上げ、聴衆に向かってファイト(闘おう!)と数回叫んだ。私はその姿を見ながら胸が熱くなった。米国と米国市民を護りたいという、強い意志を備えた証をその行動に見た。為に生きる意志を確かに見た。彼の中にはアメリカを護る神霊が生きて働いていた。アボジが、ブッシュ政権がアメリカ摂理に手を翻したことで国の衰退を予言せざるを得なかったが、そして私自身もアメリカの希望は今の今まで見ることはなかったが、しかし彼はアメリカの希望を捨てはしなかったし、そんな齢になってもその希望実現に心身を捧げている。私は他の食口と同じように共和党派ではあるけれども、彼の政権下だったとき彼に期待もしなかったし彼がそれほどに愛国者だとも思わなかった。減税策はありがたかったが、政策担当者を次々辞任させてころころ変えるのは彼の人望の無さだろうと誰にと構わず口にしていた。しかし彼は彼なりに孤軍奮闘していたのだろう。人はそう簡単に変わらないし数十年続いて構築してきたシステムも簡単には崩せない。そして人もシステムも年月を経るほどにたかってむさぼる悪心や輩が当然のように増殖してくる。アメリカだって日本と同じように保身と利権の為に村社会が湧いている。左派右派の両派でそれはあるし、それは政治以外の社会でもそうだし、そんな幾多の村社会のグローバルな意志系統がDSだろう。今回のようなセンセーショナルには扱われなかったにしても、トランプが身の危険を覚えたのは何度かあった。彼を取り巻く環境と彼の行動は常に死と隣り合わせであり、その恐怖を超えて尚意志を貫くとなると、確かに彼の中に太い一柱の神霊が立っているはずで、その背後無くして彼の強固な意志は成り立たない。この暗殺計画がもし成功していたら、アメリカは瓦解する道をマッシグラに突進したはずだ。かつてのローマ帝国が内部から腐っていったように、アメリカも見過ごせない程に腐敗は広がっている。腐敗に乗じて生きるバイデンも彼に繋がる者達もトランプを相当に恐れている。トランプ大統領となれば、必ず彼等の罪状を白日の下に晒し、そして結果として全てを失うことになるからだ。トランプのプラカードを掲げる者達も含めて市民とて、同じように何らかの腐敗の汁を啜っている。国に負んぶに抱っこの市民ではなく、国を支える意志を持つ者が市民だとの共通観念を取り戻さない限り、トランプ大統領になっても改革は難しいが、愛国救国の神霊をいつまで宿し続けられるかどうかがこのトランプ摂理に掛かっている。

2024年7月10日水曜日

今日の想い 1306

為に生きるというみ言葉は為に生きる意志を備える自分を生きるのであって、他の為に自分を失うこととは異なる。アベルや誰かに合わせて自分を失うのではなく、あくまで自分という主体が中心であること、そこを無視して表面的に繕っても自らに犠牲を強いることでしかなく為に生きる精神とはならない。先にも述べたように日本人は主体なる霊が立たない、或いは立てども霊の影が薄いものだから、本人は為に生きているつもりが実は振りをしているだけの可能性が高い。日本人の精神性を紐解くのに三島由紀夫はもってこいの人物だ。三島は論理にも長け美意識も人一倍強い作家だった。しかし彼自身が日本的とされる在り様に心酔する姿勢からわかるように、内面に主体なる霊を立ててはいなかったはずだ。西洋的キリスト教の死に対する認識と、東洋的日本の死に対する認識は、主体なる霊のあるなしが関係していて異なってくる。彼の自刃という決起は、本人の主体的行動によるものだと思われがちだが、実は自分の中には見出せない崇める霊的存在、彼の場合は特有の民族霊が彼の魂を操っていてそういう行動に出たということだ。日本武士の切腹行為もまたそうであり、日本軍の特攻隊精神も同じで自らの魂の主体を他に預けているからそういう行動を取ってしまう。見えない日本の民族霊に従っていれば、その願いに応えられず覚える孤独感情を忌むものとし、それを辱(はじ)として日本人は死以上に嫌っている。それはみ言葉の意味する他の為に生きると同じものかというと全く異なっているのだが、アボジに向かうべき自分の在り様も主君や天皇に向かう日本民族の在り様も、方向性が異なるだけで同じ犠牲精神だと捉えてしまっている。良心宣言で明確にされたように、自分の外の存在に主体を置いてその隷属存在となるのではなく、自らの内なる良心こそが主体なる霊として立つべきであって、他の或る霊的存在に魂を預けるべきではない。日本人は異邦人だと言われれば気に障るのはわかるが、日本人である私達の中に歴史を通して関与してきた民族霊による内的教育が厳然として日本人に影響を与えていて、アベルから言われたことを鵜呑みにしたり周りに合わせて行動する村意識の性品もその一つだと思う。日本を出てみればわかるのだが、海外の食口からみると日本食口の在り様は異様に見えて理解を超えている。しかしお世話になっているのは事実だから御上手を言って誤魔化しているものの、内心受け付けない。しかしそういう日本食口の染み込んだ性品を理解したうえで訓練された私達であって、私達の中に良神が立てば摂理に対して多大な貢献ができる。ほっておかれれば日本人は八百万神に従う異邦人であって、主なる神から見れば見放される民族かも知れない。しかしアボジはサタンの手中にある日本人を中心摂理に用いられた。そこに込められたアボジの心情をしっかりと汲むべきだろう。蓮の花の白は沼の中から茎を伸ばして開く。泥水で濁っているのにどうしてあれほどの純白を差し出せるのか。濁りに濁っている私と日本人の魂。それは得体の知れない数多の霊が入り乱れる泥沼そのものだ。もしドロドロした私の魂からあの純白を咲かせることができるなら、私の魂は光り輝き、拾って教育して下さった御父母様はどれほど日本食口を誇らしく思われるだろう。

2024年7月7日日曜日

今日の想い 1305

お前は既に死んでいる、ではないが日本は既に詰んでいる。モノが高い、インフレだと騒いでいるが、覚悟すべきインフレの津波はこれからやってくる。モノが高くて困りますと愚痴で言えるうちはまだ余裕であって、津波が襲ってくるとどう生き延びるかに必死で愚痴っている暇もなくなる。今、日本全体に責任を持ち日本の未来を心配して施策を打てる人は数えるほどでもいるだろうか。少なくとも政治村や官僚村には一人もいない。誰も自分が村に居座ることしか考えておらず日本のことなどどうだっていい、それが言い過ぎなら居座る為に精一杯で日本をどうすべきかにまで思いが至らないと言ったほうがいいのか。日本で生活しているなら、インフレの高波を受けながらこの潮位はこれからどうなるかしっかりアンテナを立てて感知してほしい。日本政府は日銀を含めて何の対策も立ててはいないし立てられない。アメリカの言いなりが身に沁みついていて、国民にどれほど負担を負わせようとも何もできない。国民に向いていないなら政府のやることはことごとく反国民的政策でしかない。これだけの通貨安であれば他の通貨に逃避するのは自明の理で、そうなると円は更に暴落して危険域に入っていく。今までのデフレマインドに慣らされたままでは来る大津波に流されるしかないかもしれない。しかしこの混乱期、激動期に立ち向かい、人生のダイナミックさを楽しむ者も当然でてくるのであり、性根の入った食口はそこでこそ頭角を現してほしい。解散がどうのと政府もメディアも騒いでいたが、そんな政府もメディアも立ち行かなくなって倒壊するのがこの大津波で、日本はスクラップアンドビルド、全て壊して立て直されるのが日本の摂理的運命だ。

2024年7月2日火曜日

今日の想い 1304

イエスは彼に言われた、「私に従ってきなさい。そして、その死人を葬ることは、死人に任せておくがよい」。マタイ伝 8章21~22節

確かに自分は原理を通して死生観を立てることができた。しかし最初に友達に誘われて原理講義を受けた時から、観を立てるというようなそんな大層な意志を持って原理に対峙してきた訳ではない。私自身は生きることも死ぬことも相当に悩んではいたものの、ここから幾らかのヒントは得られるだろうくらいしか思わなかった。それは献身生活を始めてもそう変わりはなかった。初期に経験した聖霊体験以外、私の内面の変化を与える特別な機会はなかった。それでも敢えて信仰を捨てるでもなく50年経って見ると、自分は自分としての死生観をこの道を歩むことで立てることができたと思える。生死の意味と指針なくしてそれでも生きて、そして死を受け入れている周りの人々は私には理解できなかった。私にすれば生きて地獄、死ぬにしても地獄だった。三島がどれほどその天才的筆力でもって生について、そして死について、その観を立てる為に綴り続けても、彼は所詮問いを立てることで終わっている、と私は思う。私が中一の時に彼が引き起こした度肝を抜く事件でさえも、それは生死への問いを日本人全てにぶつけたかったように思える。日本人は未だ主体なる自我を持ち合わせていない。大方の日本人は主なる神以前の神々の状態と同じで主体なる自我がない、すなわち生きた霊として立っていない。知人が死に家族が死に誰もが死ぬように私も死ぬ、としか一般の日本人は言えない。周囲の死も自分自身の死も同じ死だと捉えている。しかし死生観の真に立っている者はそうは言わない。ある意味、毎日のように新しく生まれ毎日のように死んでいくものを内なる私に見ながら、肉身の死を超えて生き続ける主体なる自我が存在する。日本人の死生観は、キリストによって生かされた多数の人類とは異なり、人類がキリストに出会う以前、すなわち古代人と同じ霊性に立っている。八百万の神信仰とはそういう意味だ。古代人は主体なる自我を備えていない。真の父母に見え、祝福によって生きた霊の種を戴き、信仰生活を通して主体なる霊である自我を芽吹かせ、更に発育させてきた祝福家庭の価値はそこにある。