為に生きるというみ言葉は為に生きる意志を備える自分を生きるのであって、他の為に自分を失うこととは異なる。アベルや誰かに合わせて自分を失うのではなく、あくまで自分という主体が中心であること、そこを無視して表面的に繕っても自らに犠牲を強いることでしかなく為に生きる精神とはならない。先にも述べたように日本人は主体なる霊が立たない、或いは立てども霊の影が薄いものだから、本人は為に生きているつもりが実は振りをしているだけの可能性が高い。日本人の精神性を紐解くのに三島由紀夫はもってこいの人物だ。三島は論理にも長け美意識も人一倍強い作家だった。しかし彼自身が日本的とされる在り様に心酔する姿勢からわかるように、内面に主体なる霊を立ててはいなかったはずだ。西洋的キリスト教の死に対する認識と、東洋的日本の死に対する認識は、主体なる霊のあるなしが関係していて異なってくる。彼の自刃という決起は、本人の主体的行動によるものだと思われがちだが、実は自分の中には見出せない崇める霊的存在、彼の場合は特有の民族霊が彼の魂を操っていてそういう行動に出たということだ。日本武士の切腹行為もまたそうであり、日本軍の特攻隊精神も同じで自らの魂の主体を他に預けているからそういう行動を取ってしまう。見えない日本の民族霊に従っていれば、その願いに応えられず覚える孤独感情を忌むものとし、それを辱(はじ)として日本人は死以上に嫌っている。それはみ言葉の意味する他の為に生きると同じものかというと全く異なっているのだが、アボジに向かうべき自分の在り様も主君や天皇に向かう日本民族の在り様も、方向性が異なるだけで同じ犠牲精神だと捉えてしまっている。良心宣言で明確にされたように、自分の外の存在に主体を置いてその隷属存在となるのではなく、自らの内なる良心こそが主体なる霊として立つべきであって、他の或る霊的存在に魂を預けるべきではない。日本人は異邦人だと言われれば気に障るのはわかるが、日本人である私達の中に歴史を通して関与してきた民族霊による内的教育が厳然として日本人に影響を与えていて、アベルから言われたことを鵜呑みにしたり周りに合わせて行動する村意識の性品もその一つだと思う。日本を出てみればわかるのだが、海外の食口からみると日本食口の在り様は異様に見えて理解を超えている。しかしお世話になっているのは事実だから御上手を言って誤魔化しているものの、内心受け付けない。しかしそういう日本食口の染み込んだ性品を理解したうえで訓練された私達であって、私達の中に良神が立てば摂理に対して多大な貢献ができる。ほっておかれれば日本人は八百万神に従う異邦人であって、主なる神から見れば見放される民族かも知れない。しかしアボジはサタンの手中にある日本人を中心摂理に用いられた。そこに込められたアボジの心情をしっかりと汲むべきだろう。蓮の花の白は沼の中から茎を伸ばして開く。泥水で濁っているのにどうしてあれほどの純白を差し出せるのか。濁りに濁っている私と日本人の魂。それは得体の知れない数多の霊が入り乱れる泥沼そのものだ。もしドロドロした私の魂からあの純白を咲かせることができるなら、私の魂は光り輝き、拾って教育して下さった御父母様はどれほど日本食口を誇らしく思われるだろう。
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