2024年7月2日火曜日

今日の想い 1304

イエスは彼に言われた、「私に従ってきなさい。そして、その死人を葬ることは、死人に任せておくがよい」。マタイ伝 8章21~22節

確かに自分は原理を通して死生観を立てることができた。しかし最初に友達に誘われて原理講義を受けた時から、観を立てるというようなそんな大層な意志を持って原理に対峙してきた訳ではない。私自身は生きることも死ぬことも相当に悩んではいたものの、ここから幾らかのヒントは得られるだろうくらいしか思わなかった。それは献身生活を始めてもそう変わりはなかった。初期に経験した聖霊体験以外、私の内面の変化を与える特別な機会はなかった。それでも敢えて信仰を捨てるでもなく50年経って見ると、自分は自分としての死生観をこの道を歩むことで立てることができたと思える。生死の意味と指針なくしてそれでも生きて、そして死を受け入れている周りの人々は私には理解できなかった。私にすれば生きて地獄、死ぬにしても地獄だった。三島がどれほどその天才的筆力でもって生について、そして死について、その観を立てる為に綴り続けても、彼は所詮問いを立てることで終わっている、と私は思う。私が中一の時に彼が引き起こした度肝を抜く事件でさえも、それは生死への問いを日本人全てにぶつけたかったように思える。日本人は未だ主体なる自我を持ち合わせていない。大方の日本人は主なる神以前の神々の状態と同じで主体なる自我がない、すなわち生きた霊として立っていない。知人が死に家族が死に誰もが死ぬように私も死ぬ、としか一般の日本人は言えない。周囲の死も自分自身の死も同じ死だと捉えている。しかし死生観の真に立っている者はそうは言わない。ある意味、毎日のように新しく生まれ毎日のように死んでいくものを内なる私に見ながら、肉身の死を超えて生き続ける主体なる自我が存在する。日本人の死生観は、キリストによって生かされた多数の人類とは異なり、人類がキリストに出会う以前、すなわち古代人と同じ霊性に立っている。八百万の神信仰とはそういう意味だ。古代人は主体なる自我を備えていない。真の父母に見え、祝福によって生きた霊の種を戴き、信仰生活を通して主体なる霊である自我を芽吹かせ、更に発育させてきた祝福家庭の価値はそこにある。

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