生きる為に食べるのであって食べる為に生きるのではない。これは納得すると思うが、ではこの設問はどうだろうか。愛する為に生きるのであって生きる為に愛するのではない。食口であれば当然のように頷くとは思うが、世間一般に問えば返答に言葉を詰まらせる。先ず愛という言葉は広範すぎて食べるというような万民が認識する具体的行為とは異なっている。さらに日本人にしてみれば愛という言葉は意志行動の言葉というよりは普通は感情の言葉として認識している。だから動詞として使う愛するとなるとどうも表立っては言えない行為と捉えてしまいがちだ。だから愛するという言葉より為に生きるという言葉が腑に落ちるし誤解を生まない。しかしそうだとしても為に生きる為に生きるというのも多くの日本人は納得しない。為に生きることすなわち自分を犠牲にすることで、ボランティアという良心的気分に留まるものは良しとしても、犠牲は否定するだろう。現代の日本人が宗教を胡散臭く感じるのは、唯物主義に毒されてそうなのではなく、それ以上に愛に帰する犠牲に対する認識が貧しいか間違っていて、精神を病むか憑りつかれた異常者と見るからだ。サクリファイスの語源は聖なる儀式をすることであり、ヴィクティムの犠牲とは異なっている。そして食口もさして変わらず犠牲的精神を為に生きる愛の行動とは受け取れず、捨て石としての自己の痛みと見做し、頭では受け止めても内心は嫌っている。犠牲の本質は次元の異なる別の意味があるのだが、それは今のところ棚上げしておいて、犠牲という言葉を敢えて使わずに良心に尋ね良心の願いに生きると認識するところから出発すべきだ。たとえアベルからきた願いであっても、自分の良心が納得しないものに促されて流されるべきではない。天の願いはアベルから来るのではなく良心が私を突き動かす内的衝動だ。
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