2024年6月30日日曜日

今日の想い 1303

呼名祈祷、、? 本来祈祷は神との対話のはずで、個人の名を上げて或いは連呼してその個人の内外環境や意識に影響を与えたいという姿勢は果たして神との対話となり得るのだろうか。神様はそうやって個人の名前を上げて喚起されなければ動かない神様だろうか。祈祷は私と神との対話であってそこに誰かへの影響を入れようとすれば、それは神様を私の次元に引き下ろして並列に会話ないし説得するのであって、そうなるとそれは祈祷とはならずに何某かの霊を呼び寄せようとする行為でしかないと思う。それが良いとか悪いとか言いたいのではなくて、特定の人物を上げるというコックリさんや恐山、黒魔術手法を取ることが祈祷に馴染むのかどうかということを考えるべきだと思う。勿論私自身も誰それの名を上げて祈祷もどきも数知れずやってきたし、子供や妻の事となると名を上げて切実にお願いせざるを得なかった。しかしそれは神との対話そのものではなく、念に過ぎない。願いを祈願して叶わなければ怨念となりかねないし、逆に恩念になるにしてもそれは願いが叶えてもらってその代償としての恩義であってどちらにしても自己中心が基になっているように思う。清平摂理が一時的なもの(アボジは解怨をいつまでも摂理として願われたわけではない)であって、祈願ばかりにベクトルを取れば確実に御利益目的に傾き宗教としての高い霊性や精神性を失うようになる。それはアボジならずとも多くの食口が思っている内容であり、清平摂理がいつまでも中心的摂理であれば教会は堕落したと取られても仕方がないだろう。

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