私の中にカイン的性品の未だあることは認めざるを得ないだろう。ということは私の中でアベルカインのバランスを保てずカイン的性品が度を超すとサタンが主管する自分になりかねない。同じように教会組織であっても内部にカイン的なものが常にあって、それが度を超すと教会ですらサタン的な存在になり神から後退してしまう。教会内だから誰もがアベル的で誰もが神様に顔を向けていて近づいている、とはならない。教会内に様々な立場の人物が混在している。大きく二分すればアベルとカインだが、更に分類していけばアベル型に6種類、カイン型に6種類となり、アボジを証してきた洗礼ヨハネ的人物がいたようにユダ的人物も当然いる。それは食口それぞれの主観的にみてそう思える場合と、摂理的にみて選択されその立場にいる場合がある。主観的にみてそう思える場合とは私自身の写し鏡としての役割であって、彼等とどう対し接するかは私の中のそういう性品にどう対処するかが試されているし訓練されている。教会や教権の腐敗を指弾する目で見ているとしたらそれは自分の写し鏡として自分の腐敗もそこにみて、教会がどうすべきかの意見があるなら同時に自分に当て嵌め、そして悔い改め、自分自身を改革する意志を同時に持つ必要がある。それなしにどうこう意見するのは公私が分裂しており只の野次馬でしかないだろう。愛菜ちゃんのでる番組で世界遺産サグラダファミリアの特番を見た。完成はなくてどこまでも未完だが、完成に向かう意志を持ち続けることが大切だと利口な愛菜ちゃんは解説していた。私達は神人一体圏という人格完成を標榜しているけれども神にいくらかでも近付けることはできても神様になることはできない。しかし人格完成の道を断念せずに歩み続け位相を上げ続けることが願われている。にも拘わらず恰も完成圏にいるかのように高みから堕落世界を見て品評するように、私達にアベル的ではないカイン的選民意識や私達こそが正しいという独善性に犯されていて、畏敬の想いや謙虚な姿勢を忘れてはいなかっただろうか。私達はみ言葉に出会い信仰を持つことでやっと普通の人に追い付けたと認識するくらいが丁度いい。
2025年5月31日土曜日
今日の想い 1381
表面的には何の変化もなく、毎日のルーティンワークをこなすことで時間を費やしている。若かりし頃の大波荒波に疲れ果て、感情の海の平安をもっとも願う老年期を生きている。心身を捧げ人生を捧げて摂理と呼ばれる公的生活に邁進してきたつもりだが、結果という果実をどこに見出したらいいのだろうか。清平にあるあの白亜の建築群だろうか。教会信仰を第一義として闘う僅かの二世達こそがその果実だろうか。妻は教会が取り上げられる毎に口にしている。み言葉は素晴らしいけど、、。当然のことみ言葉は私達が心魂注いで築き上げた果実ではない。一方的に与えられたに過ぎない。み言葉が沁みて私達の魂を駆り立てた。しかし理想は砂上の楼閣の如く崩れ、この手で掴もうとしたそのはしからボロボロと落ちて跡形もない。残ったのは私達に対する非難と行き場のない空虚な魂だけ。名ばかりの祝福家庭で天の威信は見て取れない。吐いて吐いて、搾り取ってでもさらに吐いて、残りの人生を歩む一歩だに踏み出せない、そこまで追い遣られてこその統一食口だ。壇上で神は私達と共にあると声高に叫び、さも天に選ばれた私達であるかのように耳に優しい希望的言葉を述べる者は、余裕が残っていて未だ吐ききってはいないだろう。死線を跨ぐか跨がないかの鬩ぎ合いの場でなければ復活の概念など到底理解できようもない。霊的な死を経験した者から復活の約事は為されていく。天国に行くことを夢見て終わるのではなく、率先して地獄に赴き、地獄を知る者が逆説的に天国を築くことができるだろう。笑うのではなく、かといって泣き一辺倒でもなく、笑いながら泣き泣きながら笑う、統一食口はそうあるべきだ。
2025年5月15日木曜日
今日の想い 1380
宗教が先ずあってそこから道徳や文化は取り出されるのであって、宗教嫌いの日本人の多くは道徳や文化が先きだと思っているから宗教嫌いになってしまう。日本人が神仏への畏敬という宗教心があったから社会生活の道徳が養われたはずなのに、科学至上の世の中で宗教を否定してしまえば当然道徳は崩れ廃れていく。自分は神仏を敬っておりお寺に行けば手を合わすし神社に行けば柏手を叩くと言うけれども、己が願いという欲をあわよくば叶えてもらいたい、或いは敬う形だけの文化慣習という畏敬の念から極めて遠く、それを信仰心というのは実に宗教を馬鹿にしている。それは日本の進化論教育等の唯物的側面ばかりに意識を向けさせてきた結果でもあり、外的な実力を評価し内的な人格を蔑ろにしてきた結果でもある。そしてここに来て、教会を解散させるという国家権力の横暴を許してしまう。国がこれほどに腐敗し、これから事実上の宗教不在になるということは日本から中心的柱を取り除いてしまうことであり、太平洋に泡のように消え去るかまた残るのであれば分断されてしまうということだ。そういう外部への批判もさることながら、国民の大方を反教会にしてしまった教権に対する憤りも大きく、日本に対する救国の想いがどれほどあったのか、罪まみれの日本など消え失せて当然だともし思っていたとしたら、それこそ日本を形作る中心的大天使から排除されて当然だろう。保守派と自認する多くの論説者や有識者からも解散は当然だと断言されるのは、彼等が拉致監禁等の反教会がやってきた被害を知らないからではなく、DSのグローバリズムのように世界の救いの為には日本は捨て石になっても仕方ないという認識が私達の想いの中枢にあることが原因なのではないだろうか。教権からアベルに伝えられる方向性と判断にどこまでもイエスマンだった食口は、ここにきて明らかに自らが自らの良心に尋ねて方向性と判断を為すべき時に追い遣られている。かつてのように原理非原理圏の棲み分けが教会内部と外部だというような壁は既になくなっている。教権に従えば全て善、とは言えなくなっている。
2025年5月9日金曜日
今日の想い 1379
私達はこの世の人達と同じようにこの星に生まれ落ちた。神の意志なのか何らかの意志が働いて生まれ落ち、地球船に先導されて時の航海に繰り出している。時の大海原で霊が体現する様々な試練や祝福に出くわしながら、最終地点である霊界の入り口を目指して時を駆け抜けていく。船体であるこの身体もこの魂も、最終地点を予想できるまで航海すると長年の時の流れに相当傷んでいる。摂理的使命に奔走してきた私達は、この世の人達から比べれば更なる心身の痛みを重ねながらも、この期に及んで畳みかけるように鞭うたれる。統一の群れはボロボロになり、何の成果も得られない虚しさに包まれたまま地上を去らざるを得ないのだろうか。憤りと空虚感に苛まされ、本来なら伝道した多くの祝福家庭を両手に歓喜の声に迎えられて霊界の門を潜るはずが、カルトで反逆者の汚名を首からぶら下げられて死の門を潜る。この、どう表現していいのかわからない幸夢からの悪夢。善神からの悪神。天国からの地獄。こんな、言葉にもならないほど魂を締め付けられ息苦しさを覚えるのはいつの日以来だろうか。砂漠で死んでいく者に水に浸した布切れを口に含ますように、今慰めの一言でもかけられれば嗚咽するだろう。しかしこの世の人達は当然のこと、支え続けてきた本部教会からも、親として慕い続けてきた御父母様からも、慰めの言葉の一つですら下賜されることはない。日本の食口は棄てられたのだろうか。ボロボロの舟のまま霊界の門にも辿り着けず、悪霊の津波や荒波に翻弄されたまま死を待つしかないのだろうか。
2025年5月8日木曜日
今日の想い 1378
食口はSかMかと分けるならば、M, マゾヒスティックであって常に自分を痛めて喜びを得ようとする。おそらく性癖と食口の在り様を同等に並べるのは気分を害するだろう。受け身の信仰であり指示を受けての行動であり、今回の解散要求に対して自発的行動に出る食口は殆どいないことからみても、苦難も困難も天が与えた試練であって私が意志して行動した結果だとは全く思っていない。天が与えた試練として耐え忍び、アベルの指示がなければただただ黙する以外何らの思索も行動も自分の中に起こらない。そして受ける苦難をどう信仰で昇華して内的喜びに変えるか、、。それだけであればマゾヒスティックな在り様と変わらないと言われても、私は当然だと思う。確かにアボジは教会は苦労の百科事典だと言われたが、このマゾヒスティックな在り様を果たして苦労と思われるかどうか甚だ疑問だ。私はというと憤りを抑えられず、その感情は益々激しくなる。それは決定的な発言をしてしまった岸田元首相、あれほどに寄り添い応援してきた自民党議員や他党議員、反教会一辺倒のマスコミ、信仰の本質を全く理解せず新興宗教を毛嫌いする国民、そしてもっとも憤りを覚えるのはこの期に及んで何の反省も救国の訴えもない教会自体、更に人生を賭して摂理に奔走してきた自分自身にも憤りを持っている。私の人生は何だったのか。私の憤りですらこれほどであるのに、私と同じように憤りのやり場のない食口が増えていくなら、この日本国を壊滅させて余りあるものとなるだろう。それでも愛して許して、、と或る兄弟は言うけれども、そう言えるのは適当に歩んできたから言える言葉だとさえ思えてくる。そして、この憤りが私の体を蝕んでいく。
2025年5月4日日曜日
今日の想い 1377
私がみ言葉と歩みから感じ取った神様は寂しい御方であったということ。以前にも寂しさを味わった時がもっとも神様を近く感じたという話をしたことがあるが、私の中に寂しい感情が事ある毎に起こるのはその感情を通してより神様に近付けと言われていると思っている。それは親として寂しく思うこともあり、夫として寂しく思うこともあり、男性として寂しく思うことも当然あるのだが、様々な立場の寂しさを味わいながら神様の子女として親なる神様の心情を相続していく路程でもあった。おそらく、、おそらくだが、男性食口の多くが経験していると思うのだが、生涯相対者だけを愛し他の女性とは関わりを持たない、それを絶対愛として生涯守り通す決意と同時に、こういう別の言い方をしていいものかどうかわからないが決意の逆説である諦めを強いられている。相対以外の女性に感性が向かうのを私の罪がそうさせていると無理くり納得させてはいるが、しかし論理では解決できない男性としての否定できない感情が現にあって否めないのは当然だろう。しかし愛とは捉えられないその諦めによる寂しい感情でもって神様の心情を尋ねる。愛情と情愛は異なる言葉で別物なのはその通りだろう。エロスを動機とする愛と行動である情愛をアボジは否定しておられるし、情愛を抱いたことはないと断定もされている。しかし一方で傍目には情愛としか捉えられない行動もされていて御落胤の子女もおられる。またそれぞれの御子女様も同じように傍目から見れば愛の問題を抱えておられる。神様も愛の御方であり教会も愛の教会であるのはその通りかもしれないが、今の地上は愛の完成圏にはなく、そうなる途上にあると見做せば全ては頷けるのではないだろうか。教条に引っかかればそのまま地獄だと言うのではなく、また堕ちた食口、離れた食口と裁くのでも裁かれるのでもなく、愛の完成圏に至る為の紆余曲折路程だ。そしてそれは霊的に幼い私達がイメージし思っているものとは異なる愛の完成圏だろう。世間からみれば訝しく思われ理解されないにしても、苦労と寂しい孤独感を何度も何度も甘受しながら神を尋ねていく。だからこそ神様は私達を手放すことはできない。