2025年5月31日土曜日

今日の想い 1382

 私の中にカイン的性品の未だあることは認めざるを得ないだろう。ということは私の中でアベルカインのバランスを保てずカイン的性品が度を超すとサタンが主管する自分になりかねない。同じように教会組織であっても内部にカイン的なものが常にあって、それが度を超すと教会ですらサタン的な存在になり神から後退してしまう。教会内だから誰もがアベル的で誰もが神様に顔を向けていて近づいている、とはならない。教会内に様々な立場の人物が混在している。大きく二分すればアベルとカインだが、更に分類していけばアベル型に6種類、カイン型に6種類となり、アボジを証してきた洗礼ヨハネ的人物がいたようにユダ的人物も当然いる。それは食口それぞれの主観的にみてそう思える場合と、摂理的にみて選択されその立場にいる場合がある。主観的にみてそう思える場合とは私自身の写し鏡としての役割であって、彼等とどう対し接するかは私の中のそういう性品にどう対処するかが試されているし訓練されている。教会や教権の腐敗を指弾する目で見ているとしたらそれは自分の写し鏡として自分の腐敗もそこにみて、教会がどうすべきかの意見があるなら同時に自分に当て嵌め、そして悔い改め、自分自身を改革する意志を同時に持つ必要がある。それなしにどうこう意見するのは公私が分裂しており只の野次馬でしかないだろう。愛菜ちゃんのでる番組で世界遺産サグラダファミリアの特番を見た。完成はなくてどこまでも未完だが、完成に向かう意志を持ち続けることが大切だと利口な愛菜ちゃんは解説していた。私達は神人一体圏という人格完成を標榜しているけれども神にいくらかでも近付けることはできても神様になることはできない。しかし人格完成の道を断念せずに歩み続け位相を上げ続けることが願われている。にも拘わらず恰も完成圏にいるかのように高みから堕落世界を見て品評するように、私達にアベル的ではないカイン的選民意識や私達こそが正しいという独善性に犯されていて、畏敬の想いや謙虚な姿勢を忘れてはいなかっただろうか。私達はみ言葉に出会い信仰を持つことでやっと普通の人に追い付けたと認識するくらいが丁度いい。

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