2025年5月4日日曜日

今日の想い 1377

 私がみ言葉と歩みから感じ取った神様は寂しい御方であったということ。以前にも寂しさを味わった時がもっとも神様を近く感じたという話をしたことがあるが、私の中に寂しい感情が事ある毎に起こるのはその感情を通してより神様に近付けと言われていると思っている。それは親として寂しく思うこともあり、夫として寂しく思うこともあり、男性として寂しく思うことも当然あるのだが、様々な立場の寂しさを味わいながら神様の子女として親なる神様の心情を相続していく路程でもあった。おそらく、、おそらくだが、男性食口の多くが経験していると思うのだが、生涯相対者だけを愛し他の女性とは関わりを持たない、それを絶対愛として生涯守り通す決意と同時に、こういう別の言い方をしていいものかどうかわからないが決意の逆説である諦めを強いられている。相対以外の女性に感性が向かうのを私の罪がそうさせていると無理くり納得させてはいるが、しかし論理では解決できない男性としての否定できない感情が現にあって否めないのは当然だろう。しかし愛とは捉えられないその諦めによる寂しい感情でもって神様の心情を尋ねる。愛情と情愛は異なる言葉で別物なのはその通りだろう。エロスを動機とする愛と行動である情愛をアボジは否定しておられるし、情愛を抱いたことはないと断定もされている。しかし一方で傍目には情愛としか捉えられない行動もされていて御落胤の子女もおられる。またそれぞれの御子女様も同じように傍目から見れば愛の問題を抱えておられる。神様も愛の御方であり教会も愛の教会であるのはその通りかもしれないが、今の地上は愛の完成圏にはなく、そうなる途上にあると見做せば全ては頷けるのではないだろうか。教条に引っかかればそのまま地獄だと言うのではなく、また堕ちた食口、離れた食口と裁くのでも裁かれるのでもなく、愛の完成圏に至る為の紆余曲折路程だ。そしてそれは霊的に幼い私達がイメージし思っているものとは異なる愛の完成圏だろう。世間からみれば訝しく思われ理解されないにしても、苦労と寂しい孤独感を何度も何度も甘受しながら神を尋ねていく。だからこそ神様は私達を手放すことはできない。

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