2025年5月15日木曜日

今日の想い 1380

 宗教が先ずあってそこから道徳や文化は取り出されるのであって、宗教嫌いの日本人の多くは道徳や文化が先きだと思っているから宗教嫌いになってしまう。日本人が神仏への畏敬という宗教心があったから社会生活の道徳が養われたはずなのに、科学至上の世の中で宗教を否定してしまえば当然道徳は崩れ廃れていく。自分は神仏を敬っておりお寺に行けば手を合わすし神社に行けば柏手を叩くと言うけれども、己が願いという欲をあわよくば叶えてもらいたい、或いは敬う形だけの文化慣習という畏敬の念から極めて遠く、それを信仰心というのは実に宗教を馬鹿にしている。それは日本の進化論教育等の唯物的側面ばかりに意識を向けさせてきた結果でもあり、外的な実力を評価し内的な人格を蔑ろにしてきた結果でもある。そしてここに来て、教会を解散させるという国家権力の横暴を許してしまう。国がこれほどに腐敗し、これから事実上の宗教不在になるということは日本から中心的柱を取り除いてしまうことであり、太平洋に泡のように消え去るかまた残るのであれば分断されてしまうということだ。そういう外部への批判もさることながら、国民の大方を反教会にしてしまった教権に対する憤りも大きく、日本に対する救国の想いがどれほどあったのか、罪まみれの日本など消え失せて当然だともし思っていたとしたら、それこそ日本を形作る中心的大天使から排除されて当然だろう。保守派と自認する多くの論説者や有識者からも解散は当然だと断言されるのは、彼等が拉致監禁等の反教会がやってきた被害を知らないからではなく、DSのグローバリズムのように世界の救いの為には日本は捨て石になっても仕方ないという認識が私達の想いの中枢にあることが原因なのではないだろうか。教権からアベルに伝えられる方向性と判断にどこまでもイエスマンだった食口は、ここにきて明らかに自らが自らの良心に尋ねて方向性と判断を為すべき時に追い遣られている。かつてのように原理非原理圏の棲み分けが教会内部と外部だというような壁は既になくなっている。教権に従えば全て善、とは言えなくなっている。

0 件のコメント: