私達が自由であるように、御母様も自由だ。何を信ずるもどんな言動を発するも自由だ。そしてどんな御母様であっても御母様に変わりはない。そしてそれを受け取るも受け取らないも、その判断に時間を要するも私達の自由だ。しかしそのことで御母様を認めないとしても、それでも霊的母親、すなわち聖霊であられる御母様は御母様として何らその位相に変わりはない。歳を取って私の母は随分と変わった。変わり果てたといってもいいかも知れない。今は私の介護なしには何もできないし、自分の身体が思うようにならないことに苛立ちを覚えるのか、どうも私の手助けが気に入らないらしい。しかしどれほど変わり果てようと、私の母であることに変わりはない。幼少の頃、欲しかった300円のプラモを近くの雑貨屋に母と行く度に見ていたが、本当に貧乏だったから欲しいとは言わなかった。でもある時息子にそのプラモを買って目の前に差し出してくれた。嬉しいというより申し訳なかったが、その時の母の想いは私の中で一生色褪せない。高校を卒業する時、この道だと決めて4500円のぼろアパートから教会に引っ越すとき、何も言わなかった母が共同炊事場で皿を洗いながら泣き崩れた。その時の母の想いも私の中で一生色褪せない。いや永遠に色褪せることはないだろう。御母様も、ある食口によれば変わり果てた御母様に見えるのかも知れない。しかしどれほど批判しようが、真の母と認めないとまで言ってしまおうが、それでも御母様は御母様だ。私達が御父母様によって霊的に接ぎ木され生かされ血統圏に入ったことに間違いはない。その上で今の私がある。しかし先天の絶対信仰絶対従順のイメージそのままで、イエスマンとして御母様に対していいのかというと、そこには異議がある。息子娘であれば母に対して当然一言いえるように、御母様に対しても言えなければ息子娘ではなくイエスマンの従者に過ぎない。御母様が食口に対しても、世間に対しても、嫌われて当然の如く敢えて火中の栗を拾われるのはどうしてだろうか。そう考えたことはあるだろうか。私には敢えて悪者を演じ続けておられるようにしか思えない。私の中では皆の前でアボジに一言を促されて壇上に立ち、しかし暫く嗚咽されておられ、やっと絞り出された言葉が耳に届かなかった、そんな御母様が生きている。
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