2026年8月27日木曜日
今日の想い 1488
2026年8月25日火曜日
今日の想い 1487
人間は感情の動物だという。だから人間に対するときは感情で対する。しかし動物も植物も次元は異なろうとも感情はある。自我がなく言葉を持ち合わせていないので自分で表現する限度はあるが、感情の動物である人間が言葉にならない言葉を汲み取ろうと思えば、動物でも植物でもそれなりに分かり合える。しかし鉱物となると感情で対そうとする人間は相当数限られている。鉱物は感情を極限まで押し殺した存在だ。自我どころか個という概念までも否定し風と水と土と火の道理にどこまでも従っている。人間の喜怒哀楽の感情的側面を完全に取り去れば風水土火となる。人間は鉱物を用いて様々な創造を為してきた。アダムとエバに神様が息を吹き込まれたように、人間は創造したものに息を吹き込んでいる。私は今二年半前に両親のために用意したこじんまりとした家で母と暮らしている。20年前に建てられた決して新しい家屋とは言えないけれども、以前の家主が丁寧に使いメインテナンスも良くされていて、初見したときにこの物件に決めた。その時決めた内的要因があって、吹き込まれてきた霊的息吹の愛称が私に合っていると感じたからだ。両親が引っ越すまで掃除したり手直ししたり、内装の壁紙は業者に頼んだけれどもその他は大体自分でやった。この家に入るたびに口にはしないにしても「ただいま」と声をかけ、壁を優しく撫でながら愛でていった。この家は私を快く受け入れてくれる意思が伝わってきたし、事実私と両親(今は母のみだが)を守ってくれている。食口の万物に対する態度が唯物的なのは、原理の知的側面にのみ光を当てて感情の部分を蔑ろにしてきたからだ。霊界の実在を認めながら地上という結果世界にどのように霊が働いているかを見ようとしない。住んでいる家に対しても、着ている服に対しても、人々の手から手へと旅して辿り着いたお金に対しても、全ての万物に対して耳を傾け、背後にある感情を備えた霊的本質に触れなければ万物主管とはいわない。霊に触れれば彼らは声を発する。食事の前に長い祈りを捧げずとも、心を込めていただきますと声をかければ御飯は光り輝く。愛でながら行儀よくいただけば霊的に食することにもなる。
2026年8月18日火曜日
今日の想い 1486
韓国のとある牧師が立ち上がった。やっと立ち上がった。彼の叫びが個人的感情や欲心からの言葉ではなく父母を想う心情に即したものであることは、生涯を通して歩んできた信仰路程、その上で相続した天の心情圏に立つ者であればその琴線に触れるはずだ。彼は正しいか正しくないかの論理に立っているのではなく、父母を想う心情に立っている。原理的観点から独生女信仰はおかしいと言っているのではなく、父母様への想いに触れればこそ改めるべきだという心情圏に立った言葉だ。御母様に対して進言できなかった自分であることを悔い改めている。信仰を通して心情を相続し、心情圏に立てば、未だ信仰にのみ殉ずる者からは位相が異なっている。心情を相続した者のみが真の愛の何たるかを求めることができるし触れることができ、そして真の愛に立つ。教権に立つ者が彼を無視しようが辞職させようが、天は真の愛の御方であるために当然彼の側に立っている。彼の、己が位置を捨て去ってもという犠牲と確固たる意志、見上げるそれに比して教権側がどういう犠牲と死生決断を供えているのか。私には見えない。祈祷のカタチと時間だけを食口に教育し、シュプレヒコール以外の行動に及ばない祈祷が真の祈祷といえるのかどうか、祈祷そのものが目的化してしまった教会の実情は天心苑の名を地に堕としている。
2026年8月14日金曜日
今日の想い 1485
私達が自由であるように、御母様も自由だ。何を信ずるもどんな言動を発するも自由だ。そしてどんな御母様であっても御母様に変わりはない。そしてそれを受け取るも受け取らないも、その判断に時間を要するも私達の自由だ。しかしそのことで御母様を認めないとしても、それでも霊的母親、すなわち聖霊であられる御母様は御母様として何らその位相に変わりはない。歳を取って私の母は随分と変わった。変わり果てたといってもいいかも知れない。今は私の介護なしには何もできないし、自分の身体が思うようにならないことに苛立ちを覚えるのか、どうも私の手助けが気に入らないらしい。しかしどれほど変わり果てようと、私の母であることに変わりはない。幼少の頃、欲しかった300円のプラモを近くの雑貨屋に母と行く度に見ていたが、本当に貧乏だったから欲しいとは言わなかった。でもある時息子にそのプラモを買って目の前に差し出してくれた。嬉しいというより申し訳なかったが、その時の母の想いは私の中で一生色褪せない。高校を卒業する時、この道だと決めて4500円のぼろアパートから教会に引っ越すとき、何も言わなかった母が共同炊事場で皿を洗いながら泣き崩れた。その時の母の想いも私の中で一生色褪せない。いや永遠に色褪せることはないだろう。御母様も、ある食口によれば変わり果てた御母様に見えるのかも知れない。しかしどれほど批判しようが、真の母と認めないとまで言ってしまおうが、それでも御母様は御母様だ。私達が御父母様によって霊的に接ぎ木され生かされ血統圏に入ったことに間違いはない。その上で今の私がある。しかし先天の絶対信仰絶対従順のイメージそのままで、イエスマンとして御母様に対していいのかというと、そこには異議がある。息子娘であれば母に対して当然一言いえるように、御母様に対しても言えなければ息子娘ではなくイエスマンの従者に過ぎない。御母様が食口に対しても、世間に対しても、嫌われて当然の如く敢えて火中の栗を拾われるのはどうしてだろうか。そう考えたことはあるだろうか。私には敢えて悪者を演じ続けておられるようにしか思えない。私の中では皆の前でアボジに一言を促されて壇上に立ち、しかし暫く嗚咽されておられ、やっと絞り出された言葉が耳に届かなかった、そんな御母様が生きている。