2026年6月10日水曜日

今日の想い 1473

 彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し、わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。彼が担ったのは私達の病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに、わたしたちは思っていた。神の手にかかり、打たれたから彼は苦しんでいるのだ、と。 イザヤ書53章より、、

やがて来られる御方を栄光の主として預言されたところもあるが、神の一人子であるのにこのように人々から見捨てられる者として預言されたところもある。旧約のこの部分に触れるときに、私の心は動揺する。それはどうしても、御母様の状況と重ね合わせてしまうからだ。私が素直に天の父母様神観を受け入れ、独生女信仰に入っていくことができれば、自律神経に支障を来すほどの動揺には至らないだろう。しかし原理とアボジのみ言葉でまかりなりにも知恵がついた私は、どうしても御母様の言動と認識を素直に受け入れることができない。イエス様が地上におられた当時の、当然のこととしてユダヤの王として君臨される御方の絵を描いていた、そのユダヤ人からしてみれば、イエス様像が全く異なっていたと同じように、、。白い衣を纏って空から舞い降りる再臨主のイメージを描いていた、そのクリスチャンからしてみれば、東洋人のアボジを受け入れることができなかったと同じように、、。御父様を立てられ、良妻賢母の御母様こそ聖霊実体だと、思い込んでいた私も、御母様御自身こそが原罪なく、イエス様という一人子に対する独生女だと権威を立てられる御母様に対して、ユダヤ民族やクリスチャン達と同じ道を辿っているのだろうか。アボジのみ言葉に従わない御母様だから神の手にかかり、打たれて苦労しておられるのだ。そんな言葉を聞くのは一人や二人からではない。彼等の言動はイザヤ書に預言された言葉と同じだ。そこまで真逆に振れる言動は私にはできない。御母様の苦難は私達の痛みを負って下さった、私達の責任を背負って下さったからだと、その想いも当然あって、私の心は暗く混沌状態だ。

2026年6月9日火曜日

今日の想い 1472

 日本が負けるもここまで悲惨な敗戦となった理由は、本土決戦に至るもやむなし、日本人総決死に向かわせた大本営判断の硬直化がもたらしたものだと思う。日本教会が解散にまで至った理由も、日本人ならではの硬直したアベルカインという日本全体の信仰観がもたらした結果と思っている。日本の教会の責任者にも食口にも、日本は摂理案件に犠牲となって当然、日本が潰れるまで搾り取れるだけ搾り取り天に捧げて当然という空気があった。今となっては不思議にも思えるが、中心者の言葉や指示にどこまでもいいなりになる犠牲的熱狂感が教会食口全体を覆っていた。しかし、熱狂感にのぼせている期間はそうそう長くは続かない。既に事件が起こる以前から、このまま放出し続けてどうなるのだろうという冷めた思いは誰もが持っていた。遠藤周作は沈黙の中でフェレイラ神父に、この国は沼地でキリスト教は根をおろさぬと言わせている。フェレイラが伝道した彼等が祈っていたのは、キリスト教の神ではなく日本流に屈折された神だった。はたして私達日本食口はどうだろうか。アボジがいう神と同じ神だろうか。キリスト教が祈る同じ神だろうか。仏の慈悲とキリスト教の神の慈悲の違いはというと、己の中には弱さしかないから仏にすがるしかないというのが前者で、己の強さを神への信仰で育んで自らが自らを救うのが後者だ。なかなか日本に居るとこの違いが見えてこないし、日本人の神観(ほとけ観?)は世界の神観と当然同じだと思っている。すがり信仰である清平摂理に着いてこれない西洋の食口が多いのも神観や信仰観が異なるところからそうなっている。日本の敗戦が悲惨になったのも、日本の教会が解散されたのも、自分は中心ではなく、自分は何もわかっていないし弱い存在だから周囲に合わせ、大本営やアベルの声に従うのみ、その結果と見ることもできる。そういう日本人の自我喪失(自分の中に霊(良心、良神)が立っていない)が本質の問題としてあるから同調圧力の村社会になってしまう。日本社会がそうであり、日本の教会もそうだ。

2026年6月7日日曜日

今日の想い 1471

ここ広島は、台風一過で穏やかな風が吹いている。温度は28度だが、湿気があるとないとで体感温度はこうまで異なる。何とも平和な午後だ。家路に着く児童達の、歩道橋の上で声高に言い合いその響きが青空に広がっている。こんな、穏やかで誰もが気を抜いている時に事は起こる。誰かの本でそんな箇所を読んだ記憶があるし、そう信じてもいる。ニュースを見ても、SNSを見ても、不安材料には事欠かない。ミサイルが方々で打ち上げられ、破壊も続き犠牲者も増えている。景気が良くなる兆しさえ見えないのに、それでもマーケットは青天井だ。そしてこの穏やかさだ。もう狂っているとしか言いようがない。アボジが語られていたD-DAYはどんな様子で来るのだろうか。或いは来ないのだろうか。D-DAYを前にしてX-DAYが来てしまった。私達は今、再臨のメシヤが地上におられない時代を生きている。すなわちアボジの口を通して摂理の実情を受け取れない私達だ。世界で起こっていることの本質的意味も、これから起こるであろうことも、この耳から受け取ることはもはやない。だから良心を通して尋ねる以外の方法はないにもかかわらず、私の霊的感性は、神霊の叫びを直接に受け取るほどには研ぎ澄まされていない。何となく感じるものがあるとしても、それは余りにも心もとない。先輩食口がどれほど科学的見地に立てと言われても、科学的論理的側面から摂理を見通せるとはどうも思えない。現実は、誰も得しないイラン戦争の継続、トランプの言動に踊りバブルを更に膨らませるマーケット、通貨の増刷に次ぐ増刷によるインフレと通貨価値下落、そしてこの秋には生活苦として忍び寄る資源不足と食糧不足。

2026年6月2日火曜日

今日の想い 1470

 愛は関係性を無視しては表せない言葉だ。関係性の中で産まれ、関係性の中で育まれ、関係性の中で花開く。真の父母を根として繋がった食口達が愛の人格者であり愛の群れであるかどうかは、真の父母との関係性、兄弟姉妹との関係性の中で愛が産まれ、愛が育まれたかどうかだろう。蕩減路程の献身生活は従わなければ振り落とされる、思い描く愛のイメージとは真逆の歩みの連続だった。しかしアボジが語られた「過ぎてみれば愛だった」というみ言葉をひたすら胸に、そこを信仰の基として、生きて地獄の道を歩んできた。アボジは過去の困難をどのように愛と認識されたのだろう。アボジが言う愛の概念を私が受け取っていないことを考えると、そんな問いはアボジに対しても、愛に対しても無礼な問いなのかもしれない。愛はなくとも、少なくとも私はこの道に希望を感じて、その静かな高揚感で歩み始めた。歩みの中で希望の影が薄くなっていっても未だ辿り着けない愛、真の愛を手にできるという信仰を繋いできた。そして、歳を取った。今までの歩みの中で、試練なのか苦難なのか、その一つ一つを思い起こしながら、それらが愛に繋がるどんな要素が含まれていたのか、愛に照らし合わせてどう人格を形作ったのか、死の門を通過しなければ認識できないと一方で思いながらも問い続けている。はたして「過ぎてみれば愛だった」というアボジの言葉をこの地上で口にできるのかどうなのか。この星の存在理由が愛の完成であり、もし失敗するのなら人類を含め全ての存在はブラックホールに吸い込まれるだろう。トランプは最高のカードを切ったつもりが、最悪の結果になろうとしている。MAGAを立てる為には他国との関係性が重要であるにもかかわらず、独善的では関係性は立たない。関税、ウクライナ戦争、それからイラン戦争の経過をみればよくわかる。これから更にアメリカはもがけばもがくほど孤立していく。私達も真の愛を標榜するなら関係性を考えるべきだ。教会内だけに通じる道理では関係性は築けない。これまでの負の遺産をも無駄にせず、社会との関係性、国との関係性、世界の中での位置を、信仰の原則ではなく愛の原則から問い直してみるべきだ。