2026年7月28日火曜日

今日の想い 1483

 金の亡者は天国に行けないらしい。しかし金の亡者とは誰の事だろうか。金持ちと言われる富む者を一般に金の亡者とはいわない。強盗なり麻薬組織なり、人の不幸を引き換えに得た金銭、すなわち悪銭を得てこそ金の亡者だと思うのだがどうだろう。しかし正当な方法で金持ちになったにもかかわらず貧しい者に施さないとか、ケチぶりが激しいとかのみならず、道義的に何ら問題ないにも関わらず投資や財テクで大金を稼ぐ者達まで金の亡者に括られてしまう。益を得る、すなわち金を増やすという価値の創造には、金に対する想いなり哲学がなければ増やすという価値創造は成り立たない。逆を言えば、万物に対する想いや哲学の位相に応じて価値創造は発揮される。相続による成金や、宝くじや馬券での一発成金もいるにはいるが、主管する人の器に順じてそれ以上は大抵流れ去るものだ。全ての富む者に対して偶然に彼等は金持ちになったのだから、万民に分け与えるべきだ、という思いがどうも金の亡者という言葉には隠されている。たとえ地上天国になったとしても持つ者、持たざる者は出てくるのであり、私達が描いている強制ではない共産主義、そして所有欲のない人格、などは絵に描いた餅でしかないと思っている。AIやロボットの進化と共に、一方で働かずとも無条件で生活資金を得られるベーシックインカムの議論も出されているが、それは人間を怠惰にさせる何物でもない。それは資本主義国家に於ける共産主義政策だ。

2026年7月16日木曜日

今日の想い 1482

 風前の灯、という言葉そのものが今の私だろう。生涯を通して信仰で培ったものがこれほどに心もとないとは思いもしなかった。霊的にどうのこうのという以前に、自分の気持ちすら主管できない。そして何らのすがるものもなく、風が吹けば宇宙の暗黒の遠い彼方に追い遣られ、藻屑となって消え去る。今この状態で思うと、よくぞここまで生きてきた、いや生かされてきたものだ。原理に出会わなければとうの昔に命の灯は消え去っていただろう。あの暗い田舎の山に一人二人と吊るされてきたように、、。生かされてきていったい何ができたのか。骨のみになった枝から垂れ下がっている柿の実の一つでも天に供えることができたのか。人と呼ばれる生き物が、何の躊躇もなく潰される蚊と同じだったという、その一言を告げる為にのみ生きてきたということか。たったそれだけのことで、父や母を嘆きの底に追い遣って、摂理に携わってきたのであれば、私の罪は百死に値する。それでも生かされてきたことに変わりない。せめて残り少ない生を、灰をかぶって悔い改める意志でもあるのなら、今ある状況などなんてことはない。甘んじて受けて当然だろう。悲嘆の海に沈む神様であったろうし、苦悶に次ぐ苦悶の連鎖に身を投じる神様であったことを、未だ生きてこの身で感じることができることに感謝すべきだ。アボジが明かされた悲しみの神様の様相は確かにその通りだった。

2026年7月9日木曜日

今日の想い 1481

今年に入ってヨブ記のヨブ状態が続いている。この暑い最中、悪寒が襲って眠れない。疲れて眠りにつきたいのに副交感神経が働かないらしい。耳鳴りが始まる。ひどい時は後頭部内が砂嵐状態だ。耳鳴りというより頭鳴りだ。そして、身体の左、特に左肋骨の下から脇腹あたりがずっと痛む。帯状疱疹だと診断されてはいるが皮膚の炎症までは至っていない。、、にしてもずっと痛いままだ。親父を亡くした辺りから憑き物が憑いたように、理由の知れない症状にずっと悩まされ続けている。あたかも昔の当時の自分、自分史の螺旋の合致点が今の今であるかのように、当時の不安と恐怖が40年を超えて一巡して襲っている。自分が何者かを知り、自我として霊的に立っていながら、まさかこんな試練、というべきか仕打ちかはわからないが、それは超えた試練としてもう無縁だと思っていたのに、70の手前で乗り越えるべきものとして天が許可した運命なのだろうか。頭や精神がやられるのだろうかと思えるほどに、今不安に苛まされている。一番辛いのは疲れて眠いにもかかわらず眠れない、だから本来霊的な生素を睡眠を通して受け取れるはずなのにそれがままならない。難儀な生活を強いられる、その理由が先ず知りたい。癒して欲しいと切に願う以前に理由が知りたい。私は日本人である前に日本食口だと思っている。それは摂理を担う祝福家庭だから日本は二の次だと言うのではなく、その摂理が日本国と日本人に対してどのような意味があるのかを説明する責任が日本食口にあるということだ。はっきり言って献金摂理はその意味も理解してもらってはおらず、日本国への配慮は無視したまま突っ走ってきた。確かに説明責任云々よりも天の願いの方が優先だという言い訳は教会側では立つのかも知れない。しかし反社としての烙印を押されて尚、その説明ができないなら、国は教会が反社だと認定したことは正しかったと言われても仕方がない。裁判云々の言い開きは説明責任ではなく、我々側の言い分を押し付けたに過ぎない。実際のところ世界宣教にのみ献金が使われた訳ではない。特に有識者の間で問題視している使用目的は、献金した金が北朝鮮にも流れているという彼らなりの把握している事実だ。彼等はそれを人道的行為だとは認識していない。私達はそれを含めた様々な説明責任を日本に対してしていないし、すべきだとも思っていない。それは国を愛したと、それでも良心に恥じずに言えるのかどうか。教権の人事なのか日本の責任者が二世となった今、一世がやってきたヤコブの知恵は語られず、黒い所業を隠し持ったまま歳を取った者から霊界に送られる。一定数の有識者は、表沙汰にできない事実が隠されていると、そう思っている。全体として打たれ、ヨブのように個人として打たれ、私は終活をどう整理したらいいのだろう。