今回の結果に至ったのには数えきれないほどの原因があるだろう。しかし根源の一つは、日本という国自体が信教の自由を受け入れない社会であり、民主国家の建前だけ立てて信教の自由という概念すら曖昧にして深入りさせない村社会だということ。日本は国民を愛で主管するのではなく飼い慣らしの国であって、当然自由の概念などもともとない。本来がそういう社会であるから、人々に波を起こすような目立った行動には目敏く、確実に制裁の度合いを増していく。記者会見であろうがインタビューであろうが、また普通の一般人との対話であろうが、彼等の多くは信仰を持つという感覚すら理解できず信仰の胡散臭さで鼻を押さえながら対している。信教者側がどれほど差別感情があるのを彼等に感じるとしても、しかしそれが日本人全般であって、日本の空気感でそう教育されてもいる。高裁は解散しても信教の自由を否定するものではないとしているが、教会食口は今までも、これからは今まで以上に、内外両面で普通の一般的日本人から差別的レッテルを貼られて、想いを声にする自由すら無くなっていくだろう。アボジはここまでの事態になることを予見されていただろうか。御母様はどうだろうか。アボジのみ言葉を改変させてまで権威を立てる必要があったのだろうか。清平の豪奢な建造群は日本食口をここまで追い遣って献金させても必要だったのだろうか。御母様も常に日本の犯した罪の対価を求められたけれども、結局御母様の子女である日本食口に全てのしわ寄せが負わされてしまった。それも当然だと思われているだろうか。一世は自らの意志でこの道を選んだのだから如何なる仕打ちも甘受して当然だとしても、しかし二世は違う。信仰に始まる親の観で育った彼等の居場所は無くなってしまった。それでも未だに教会本部や御母様の彼等にかけられる言葉は見当たらない。
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