2015年2月23日月曜日

内村鑑三を思う

 内村鑑三は著書の中でこう言っている。
自分が或る真理を知り得ることを信じ、あらゆる真理を知り得ることを信じないのが、真の基督教的寛大の基礎であります。(余は如何にして基督信徒になりしか)
 ドクター朴が尊敬しておられる内村鑑三だが、日本の食口のどれほどが彼の著書を手にしたことがあるだろうか。そういう自分も原理に出会ったことで真理の探究は終わったかのように思っていて、特に復帰されてからアメリカに来るまでの時期はみ言葉以外の本は殆んど目を通したことがない。本を読む時間もなかった訳だが、おそらくそれは言い訳で、原理という真理の頂点を得た以上、他の書物を紐解く意味などなくなり時間の無駄だと思われたからだ。上に記した内村の言うキリスト教的寛大はキリスト教のみが真理ではないと信じていることが基礎だと言っている。キリスト教的寛大を言うなら、その対比である偏狭はひょっとして私達統一食口の基礎になってしまっていないだろうか。原理を知り得たことであらゆる真理、すなわち全ての真理を知り得たと信じていて、他に対して耳を塞いだままでいる。謙虚であれば寛大になれるし、傲慢であれば他を排して自分という狭い中に留まり続ける。原理こそが唯一の真理だと信じて疑わない私達は意識が狭まっていることを自覚すべきだ。度重なる摂理の失敗を積み重ねながら、それでも未だに反省することなく、傲慢にも失敗の原因は他にあるはずだという無責任の上に私達は存在している。基本的に私達はその選ばれし意識に於いて傲慢で、今まで謙虚であった試しなどない。責任が私達にあるにもかかわらず過去の摂理などなかったことのように生きているけれども、どれほど小さな摂理であれサタンが讒訴しないことがあろうかと言うことだ。原理とて時代に於ける真理の表現方法であるし、実体み言葉であられる生きた御父様を戴いた意味をよくよく考えないと、原理という言葉の鞘に雁字搦めで人生を終えることになる。傲慢という基礎の上にある以上、精誠という言葉、心情という言葉は私達と共にはない。私達が思っている精誠も心情も仮の精誠であり仮の心情で本物だとは言えない。よって食口はとことん打たれるだろう。私達の自意識が完全に消滅し、灰になるまで、どこまでも試練の火で焼かれる。もはやゼロ点を超えて絶対に立ち上げれない、統一食口の選民的自意識が消滅するというその時にこそ、絶対零度を超えることで天の高みに移動させられる。と言うのは私達は本当の意味で切実な求める心を用意できていない。絶対零度に近いマイナス位置でこそ切実に絶対プラスである御父様の本質を求めるはずだ。傲慢な自意識が自分にあるうちはまだ打たれる余地がある私だと見て間違いない。心情が実体を持つことができるのは御父様に限らず、御父様が開拓された路程を絶対信仰、絶対服従でついていく私達も御父様と同じように心情の実体となるべきだが、私には誇る何もありませんという完全否定を受け入れた位置からが本当の心情一体化への道を歩むことになるのだろう。天の血統の精子として心情の種を宿した者は地上界であろうが霊界であろうが祝福された数だけ存在している。しかし心情が実体を持つまで、すなわち心情の種と卵子が出会うその路程を完遂する者がどれだけいるだろうか。最初の初穂となる存在は祝福を受けし者達の中に現れるとしても、祝福を受けた全ての者が最初の初穂とはならない。真の愛は縦的神様の愛と横的真の父母の愛の一体圏に於いて見出される、という意味は、縦的愛と横的愛の交わる接点にどのようにして私が立つかと言うことだろう。私達はキリスト教的寛大を超えて、完全否定された立場で本当の謙虚さが骨の芯まで染み渡ってこそ、完全なる対象になって主体なる御方を迎えることができる。

2015年2月21日土曜日

天暦2015年を迎える

開けて天一国3年、天暦1月1日、天の父母様の日を迎えた。タックスリポートの期限は迫っているし、店は店で改装のために忙しいし、家庭の主(あるじ)としては主で妻の介護と病院通いに奔走している。こんな心落ち着かない新年を迎えるのは初めてのことだ。毎年暮れかかると清算すべき何かはあるけれども、それでも何らかの結論を出して心機一転して新年を迎えることができた。が今年は違う。外的にも内的にも何の結論も出てはいない。新年を透析センターで迎えた妻は、この二か月で十年の苦労の歳月を費やした如くにやつれている。人間の寿命はここのところ延びて、実年齢の七割掛けだそうだ。その計算によれば妻は40を超えたばかりだが、逆に三割増しの速さで自分の時間を駆け下っているようだ。どちらの両親も年相応の症状は出てはいるけれども、それでも妻に比べればしっかりしているし、妻の二人の姉などは妻の一回り下の妹だと説明しても誰もが納得するだろう。私達夫婦二人はこの現実から逃避することはできない。どれほど模索しても、どれほど問い尋ねても、答えを与えられないままで、終わるとも知らない地獄の行脚を進んでいかなければならない。誰もが自分の人生と他の人生とを比較しながら、その比較で優位に立てる自分を見出すことで慰めながら、定められた運命の道筋を辿っていくのだろうけれども、次々と悪夢が現実となり、矢継ぎ早に落とされていくと、そんな比較優位などで人生を歩む力とはなり得ない。転がり落ちるのを先ず止めることが先決だと、誰もが踏み止まれる位置を見定め落ち着いてから、次なる環境受け入れや人生設計を試みる。しかしどこまで落ちていくのかわからない状態という進行形では、転がり落ちるのを止めるより、上りへの岐路が必ずあることを信じて、その勢いのまま駆け上れるように翻弄される環境も感情も甘受する以外ない。下りがあれば必ず上りがあるはずだと、、。もちろん上りへの岐路など見当たらない。見えない奈落の底へいくらでも転がり落ちていく。兎に角、踏み止まろうとしないことだ。僅かな、慰めの希望的観測など目も当てないことだ。地獄の底の底を見定めてやると覚悟して、落とされる運命を甘受し続ける以外ない。祝福家庭が天の花なら、地獄の底であっても祝福の花は咲くのかどうか見定めればいい。転がり落ちながらも新年を迎えることの意味は今は問わない。それでも、せめてものお約束の御寿司を供えて、誰一人いない店で御祝いの敬拝を供えた。

花の精に会いたい

私は花を知らない。花が光を受け止める生殖器であることは知っているけれども、光が花を通過して受胎する精霊達を私は知らない。それぞれの花にそれぞれの花言葉があるように、様々な花の色や形に化身している精霊達が宿っている。私が孤独なのは誰も私の事情をわかってくれないからではなくて、ましてや神様からも見放された愛の減少感でもなくて、私のこの同じ想いを共有する花に宿った精霊が存在するにも拘わらず、私はその花の存在を知らないからだ。その花を知っていれば私は孤独を覚えない。愛の減少感が罪の根源ではないように、この感情そのものが悪でもなければ堕落性でもない。けれども、この感情のやり場を見つけない限りは、恨みとなって悪魔に届けられてしまうだろう。私は花を知りたい。私のこの想いを共有してくれる、この世界のどこかにひっそりと佇む花を知りたい。その花の精に私のこの同じ想いを見届けたい。そうして慰めてあげたい。それで私の想いは解放されるはずだ。私の知っている数少ない花たちの中に、この想いを宿している花の精を知っている花はいるだろうか。心寄せる春の花たちはどうだろうか。命の短い桜の花は知る由もないだろうか。冬の死を前に咲く秋の花たちはどうだろうか。だいたい私のこの想いは、どう言葉で表現したらいいのかさえわからない。言葉が見つからなければ祈ることもできないし、想いを念ずるにも言葉として表現しなければ届けることは出来ないだろう。罪が深すぎて、この想いが神様に届かないと言われれば諦めがつくけれども、せめて色形を供えた花の精が、地上で同じ感性の次元に存在しているにも拘わらず、それでも私はその花を知らない。世界のどこかに存在しているその花を知らない。花の精が私を訪ねてくれるのを待つのではなく、私がその花を見出して、その花の精に私のこの想いを見届けたい。そうして、私から慰めてあげたい。花の精に会いたい。

2015年2月18日水曜日

今日の想い 834

全てを否定させられている。期待していたものがことごとく裏切られ、当然そうなるものだと思っていたものが一つとしてそうならない。それでも踏ん張って明日へと希望を立て直そうとするけれども、そのわずかな意志でさえも待ち構えていたかのように一撃で打ち砕く。全てを否定され、全てを打ち砕かれ、息も絶え絶えになり生きて息しているのが不思議に思えるほどだ。そう、私達夫婦は地獄の現実のど真ん中に生きている。肉体的には何とか生きているけれども、霊的生命は消えかかっている。ああそうだった。この感情の味わいこそが霊的死の味だった。霊的死を現実世界に味わいながら霊的生命としての息をつける隙間を探している。諦めながらも探している。この果てなしと思われる地獄にも霊的生命の息吹きをつける岩場が必ずどこかあるはずだと、、。その岩場を本当に探し当てたとき、私は本当の意味で救い主に出会ったことになるはずだ。御父様が救世主であることは疑いようのない事実だとしても、私は本当の意味で御父様に出会ってはいない。地上の現実として御父様に出会えたことは霊的生命にとっては象徴的な出会いでしかなくて、今まさに地獄の中で彷徨いながら、そうして霊的生命の息を吹き返す岩場を探し当てたときこそ、本当の意味で救い主としての御父様に出会うことになる。この石をパンに変えてみろと悪魔サタンはイエス様を試したけれども、この苦痛の一つ一つをひとつ残らず恨みに変えてみろと悪魔が私に囁いている。囁くどころか巧妙にも挑発してくる。足を払われる毎に、それでも信仰を立て直そうと踏ん張れば、途端にまた足を払う霊的存在がいる。妻はあまりにも次々と起こる肉体への仕打ちに対して、何が何なのかわからないと放心状態にさえなっている。決意して乗り越えようとすればその端から砕かれる。今の彼女はサタンも見ようとはしないし神様へ顔を向けようともしない。彼女にとっては試練ではなく、それがサタンの為す業であれ神の為す業であれ痛みつけるだけの仕打ちでしかない。彼女にとっての見捨てられた孤独な感情や肉体の苦痛も、私にとってのやりきれない感情や心魂の苦痛も、今ではいとも簡単に恨みに変えることができる。恨みの数々で肉体の輪郭も魂の輪郭も、破れて破裂するほどにパンパンになった時、私は完全に悪魔の血統であるとサタンへの証を立てることになる。確かに私と妻、そして私達夫婦は選ばれた存在だ。決してこの世的福を受けるために選ばれた存在ではない。サタンなのか神なのか、この夫婦を試験台にする意味で選ばれた存在だ。破裂しそうなほど膨れ上がった妻の足が車いすから垂れている。その中に詰まっているのは数多の恨みだろうか。恨みがゾウの足や風船の顔に吹き溜まりとなって渦巻いているのだろうか。私もわからなければ彼女もわからない。わからなければただ時が流れるのに任せて流れるしかない。

2015年2月14日土曜日

今日の想い 833

腎器官がうまく機能していないらしい。体内の水分を排出することができないために足はゾウの足のように膨れ上がり、顔も満月顔にパンパンに腫れて、健康だった頃の面影はどこにもない。敗血症がやっと治まる頃に転倒してしまって、弱り目に祟り目の状態で今では自分で立ちあがることもできない。よくぞそんな状態でアメリカに連れて来れたものだと我ながら感心してしまう。それも仕方がなかった。病院にいればいくらでも金はかかるし、誰か面倒を見てくれる者も見当たらないし、病人にとっての長旅はできれば控えさせたかったけれども、背に腹は代えられなかった。アメリカに帰国して取り敢えずは様子見でベッドに寝かせていたけれども、猶予のない状態だと判断して急ぎ救急に連れて行った。病院という言葉を出す度に相対者は口を閉じて顔を強張らせる。条件反射的に嫌気感を覚えるらしい。それでも連れて行く立場の私からすれば移植を受けた場所、いわゆるホームグラウンドなので、経験のない日本の病院で治療を躊躇されるのを説き伏せるという煩いはない。その分だけは気が楽だった。しかしそんな気休めの安心が吹き飛ぶほどの事態になろうとは、連れて行く折には予想だにしなかった。妻は今まで数え切れないほどの爆弾を破裂させて周囲の内外を混乱に陥し入れてきた。蕩減なのか使命なのかわからないが、あとどれ程の爆弾を抱えていて、それがいつ投下されるのか、もちろん当の本人だにわかっていない。こんな状況になることを御父様も神様も祝福を与えた折には予定として見ておられたのだろうか。そうでないなら家庭としてその運命的なものを抱えることがみ旨と言えるのだろうか。避けようにも避けきれず、逃げようにも逃げ切れない運命に捕らわれ、肉体に於いても精神に於いても翻弄され続けながらも、ずっとその問いを問い続けている。聖人にはなれず、地獄の底で喘ぐ恨みごとしきりの自分の唯一の信仰姿勢として、今では問い続けることだけを条件にしている。



2015年2月7日土曜日

今日の想い 832

通常、腹中の胎児が地上界に生まれたときの状況を想像できないし、想像する能力さえ備えていないように、地上界の人間が霊界に生まれたときの状況を人間の能力として想像できるとしても、霊界の実体様相はその想像を越えている。どんなに言葉を尽くしてもそれは象徴や比喩の枠から越えることはない。腹中の胎児に話しかけても地上の聴覚器官や判断器官は持ち合わせてはいないから、地上の人間が理解するのと同じ理解の仕方は出来ないとしても、何らかの低次の波動は受け取るに違いない。霊界の完成した霊人体を備えた霊人にとっても同じことが地上人に対して言えるはずだ。霊界の住人にしてみればどんなに働きかけても地上界は低次の波動しか受け取れない。人間は腹中時代に地上時代の準備を為し、地上時代に霊界時代の準備をするようになっている訳だが、堕落した人類は血統的なものである霊的(愛の)感性の欠如によって、愛の空気を呼吸する器官を準備できないために死が霊界の生とならず死は不完全なる霊界の生でしかない。不完全な霊人体では再生の地上再臨によらなければ霊的器官の準備、すなわち愛の完成とはならない。霊界のことを記した様々な本もあるし、み言葉も霊界について多くの事が記されているけれども、どれほど知識として学んでも知識がそのまま霊的器官の育成にはならない。正しい知識であっても霊的叡智の低次の波動に過ぎないのであり、霊的器官を備える為には正しく愛し愛されることが必要だ。食口でさえも疑問に感じる霊界に住む存在、それはとりわけ天使や天使長に関するものだけれども、存在することは導き出せるとしても存在様相はわからなくて当然だ。天使を見たという者も沢山いると思うが、通常の場合、見せられたそのものが天使ではなく、形あるものとして見せたその見えない意志こそが天使存在だ。当然その意志には複数関わっている場合もあり得、単体の天使とは言えない。堕落論に説明されているアダムとエバ、そして天使長ルーシェルの話は、それぞれの存在が存在し、そのような事件が起こったことは事実としても、その様相をイメージし始めた時点で誤解を生んでいく。はっきり言えることは、現代人と同じ人類始祖である人間がその場にいたとイメージするのは全く間違っているし、地上界の高次に霊界が存在するのに、地上界と同じような霊界、左の地上界に対する右のような霊界イメージで描くことも間違っている。さらに言えば、現代人の死の意味と霊界と地上界が混在するかのような当時の死の意味でさえも全く異なっている。霊界を知識として理解するのではなく、愛し愛され、四大心情圏を準備するにつれて受け取る霊的感性こそが、次第次第に霊界を見通せる器官になる。愛さない者は神を知らないと聖書にあるように、愛さない者はイエス様をも知らないし、もちろん御父母様をも知らない。そして愛さない者は霊界も知らない。目を皿にしてみ言葉を訓読し知識として受け止めたとしても、愛さない者はみ言葉の何一つ知らない。