2015年5月9日土曜日

理想を考えてみる

金の切れ目が縁の切れ目となれば、人間愛にもとる人だと判断するだろう。それでは理想の切れ目が縁の切れ目となると、それは一体何にもとるのだろうか。この設問を誰に対してするのかと言うと、自分も含めた食口に対して問いかけている。復帰された当時の、理想に輝いていた自分をどの辺りまで継続できただろうか。今もなお同じ理想を掲げ、その理想に燃えながら歩んでいるだろうか。おそらく多くの食口が理想を失っている。正しくは理想としていたものを失っている。復帰された当時はある理想的気分に酔っていた。今日明日とは言わないまでも、近い将来にその理想は地上に実現されると、実現される理想を先取りした優越感も相まって熱い想いで歩んでいた。しかし描いていたものは本質的理想ではなく、イメージできる程度の形をもった、理想らしい理想もどきに過ぎなかったということだ。よって、理想もどきの切れ目が御父母様との切れ目、教会との切れ目ということになる。私達が理想としていたものは尽く覆されてきた。個人的に掲げていた理想、家庭的に掲げていた理想、教会としての理想、全ては壊れ、さらに理想の実体であるはずの真の御家庭ですら理想とは程遠いという判断を下さざるを得ない状況だ。しかし私達が捉えていた理想はみ言葉の理想、御父様の理想と同じだろうか。私達が捉えていた理想は自分のイメージに過ぎず、理想という本質ではない、形としてだけの理想もどきを敢えて否定もされずに理想としてきた訳だが、理想もどき主義から御父様が捉えておられる理想、本質的理想主義を掲げなければ教会との関係も、さらに御父母様との関係も切らざるを得ないだろう。理想を形のイメージのみで捉える理想サナギを脱いで、本質的理想を捉える理想成虫へと脱皮する今の混沌期を過ごす者だけが、新しい天一国の住人として新しい世界に羽ばたいていけるようになる。それは自体自覚から他体自覚への移行であり、個人的家庭的私から氏族的民族的私を用意することであり、昼の私から夜の私へと意識上昇、アセンションすることであり、地上的愛から霊的な真の愛に生きることだ。愛も、理想も、霊的な全ての事柄も、枷に嵌められたイメージという堕落的観念ではなく、御父様が保持しておられる創造理想としての概念へと解き放たれなければならない。理想の本質を尋ねていけば、それは霊的であり、霊的であるということは心情的だということだ。理想の対義語は現実であり、ひとたび理想から現実に移ってしまえばそれは既に理想を抱いているとは言えない。私達は現実の中に足場を移そうとし、それぞれが理想もどきであっても掲げて歩んできた歩みを一区切りしようとし、残された余生を静かに過ごそうと波風立たない場所を探そうとし、そのように理想を求める翼は既に閉じて休めている。それなりに人生に掛けてきた内容の結実を収穫するに留まっている。「わたしは衰え、主人もまた老人であるのに、わたしに楽しみなどありえようか。」(創世記16章)とサラが言ったように、老い先短い一世達は、理想の本質という種を身ごもることは既にないだろうと内心思っている。み旨に燃えて御父母様の願いが私の中で生きているという実感は既に遠のいている。しかし神様が生きて働く一つのシナリオがここにある。金融というお化けクジラによって実体経済は今確実に壊れようとしている。金融バブルという消えてしまう幻想シャボン玉に気を取られ、翻弄されているうちに、実体経済の足腰は弱まり国として立てないほどだ。今の社会構築がへしゃげてその状況でも生き延びれるのは、献金に追いまくられ生活が困窮しても生き延びる力を得てきた日本食口をして他にないだろう。いつの世の変遷期もスクラップ&ビルドであって、ビルドされてからスクラップされた訳ではない。スクラップされても生きて芽を出す理想の種を保持した者達が用いられてビルドされる。もしそうであるなら、私達は理想の種を今温め続けていればいい。摂理に合わせた社会状況が、理想の種を保持する食口を必然的に表舞台に立てさせる。

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