2015年5月16日土曜日
今日の想い 851
侍るとは自分の主義主張、自分の考えを越えて、時にはそれに反して侍るのであって、侍り方の考えの違いによって袂を分かつ等という言い方は本来あり得ない。侍るのも考えあってのことだと思っているなら、心情を越えたところに考えがあって考えが心情を見下していることになる。それは偽りの主から来るものでありながら自分の良心の声だと信じて疑わず、偽りの自分の主義主張を通すことを許している。御父様は共産主義者からタイムズを取り返したと言明されたけれども、共産主義者の良心らしき信条も、グループ派の言うところの良心も、そこに違いは無いからそう言われた。御父様が、「良心は両親にまさる、良心は先生にまさる、良心は神様にまさる」と言われたその言葉だけを強調して権威を振りかざしているが、先ず私達が認識しなければならないことは御父様が言われるところの良心を私達は取り戻してはいないということだ。自分の良心を口にするのであれば、先ず心と体の戦いを終結した心身一体宣言が為されなければ、良心云々とは言えない立場だ。神様に直結している良心を取り戻していないにもかかわらず、自分の信条を良心だと言って憚らないのは共産主義者だ。自分の蕩減を払って清算して、息子娘と認められる位置で侍って、心情を相続して神様と一体となった立場で、初めて自分の良心を認識し、良心の声に従うと口にできるのであって、神様と一体圏にあられる御父母様の声に従わない者達は戒めを守らなかったエバと同じだ。神様の戒めに反して、食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われた木の実を時を待てずに取って食べて霊的堕落したエバのように、神様の位置にある真の御父母様から見るなら現代のサタンは生殖器である善悪知るの木の実から今度は良心もどきの善悪判断の木の実に代えられて、エバと同じように時を待てない者達によって判断の木の実は取って食べられ、現代の堕落は知的部分で繰り返している。天使長ルーシェルから、今度はルーシェルの配下にあった悪神アフリマンの誘いに応じた者達がグループ派だ。共産主義者が悪神アフリマンのずば抜けた論理的知能を現わしたように、グループ派もアフリマンの論理的知能を現わし論理第一で誘いをかけてくる。悪神アフリマンの誘いに応じた知識層の上の者達は、心情という論理を越える霊的概念を受け取ってはいない。
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