2015年5月27日水曜日

今日の想い 852

私の中に蛇がいる。その蛇が内側から私を誘惑する。蛇は先ず目を誘惑してくる。蛇は目を、見るに良さそうだと判断させて、ついに目は見てしまう。誘惑に堕ちた目は蛇とくるんで手を誘惑してくる。手をそそのかし、触れるに良さそうだと判断させる。ついに手も誘惑に堕ちてしまい触れてしまう。耳は目のいいなりであって、目の向く方向に耳も向かわざるを得ない。口と舌と喉は手の触れたものへのより深みの感触、堕ちた愛の味を知りたい貪欲さに駆られ一体となって味わいつくそうとする。目が酔い、手が酔い、口舌喉が酔い、蛇は酔って見る深い夢と感触の中でその目的を遂げる。蛇が目的を遂げると酔いは一気に冷め、夢は霧散してしまう。放った衝動だけが結果としての痕跡を残す。誰の中にも蛇がいる。その蛇は生殖器に居座ると次第に誘惑を始める。蛇は蛇を求めて誘惑を始める。雄としての蛇は雌の蛇である女性の生殖器を求めて誘惑を始める。人は感触への欲望を満たさんとやむなく行動していると思っているけれども、それを操り目的を達成させようとする蛇がそうさせている。生殖器自体の意志ではなく、そこに居座る蛇がそうさせている。そうやって蛇が蛇を求めながら蛇の王国、蛇の世界を作り上げてきた。創造本然であれば神様の理想に酔い、真の愛に酔うべき人間が、堕ちた性に酔い、アルコールに酔いドラッグに酔う堕落人間の姿が地上にある。蛇に誘惑されるがままにそれらに酔いしれたいと自覚すれば、理想に酔い真の愛に酔いしれる高次への自分を放棄してしまう。自体自覚の私が他体自覚の私へと生まれ変われる、すなわち血統転換の重生への実感は自体自覚の自分の完全否定から絶対信仰絶対愛絶対服従の私を絞り出し、引き出してその私を生きることで得られる。多くの食口は重生実感などあり得ないと当然のように思い込み、さして落ち込まないように、しかし理想へと飛翔する訳でもなく暮らしている。そう、生きるのではなく暮らしている。与えられた、なけなしの夢に満足しながら、飼い殺しにされている。確かにギリシャ文明に於いて肉体輪郭の美しさに目覚めた人類だが、本来の目はそんな地上的輪郭や色合いに満足してしまう目ではないはずだ。輪郭や色合いの奥を見通し、その核に至れる程に見通せる目だ。誘惑に陥れば見える範囲の楽しみを最高の理想だと結論付けてしまい、更に高みにある神様の理想、人間本来の理想を足蹴にしている。今日まで蛇は先ず目を誘惑してきた。まだ見ぬ事実を確認するのではなく見える現実に溺れていった。目の焦点を現実に合わせて生きれば、現実が霊的には幻覚を見せられていることだという事実を否定している。現実を事実以外の何物でもないと信じ切っている。目が神様の理想を見上げようとすれば、目は現実から逃げるのではなく、現実の正体を知り現実を主管し始める。

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