2015年5月1日金曜日

今日の想い 849(祈祷)

訓読を一区切り終えて、私は独り言のようにポツリと口に出してしまった。み言葉を訓読すればするほど裁かれてしまうと、、。妻も私の言葉に静かに頷いた。お互いの無言の時間が暫く流れて、それでも祈りで締めくくらないと天との関係を断ち切るようで、妻のベッドから降りて足を畳むと祈祷姿勢を整えた。しかしどうも無理だと思って、妻にお祈りするよう声をかけ目くばせした。妻は頭をゆっくり起こしながら不満そうな視線を私に返したが、それでも頭を垂れるとお祈りを始めた。病気以来妻は私以上に力のないお祈りをする。病気のこと、子供のこと、どうにも希望の一筋の光さへも見出すことができずに、落胆の気持ちがどうしても力のないお祈りになる。祈りは言葉では感謝に次ぐ感謝の連呼で繋いでいる。しかしそれが偽りであることを本人も私もよく知っている。現実に対する偽りが非礼だと言われれば、祈りは天に対する呪いの言葉にしかならないだろう。確かに現実的には偽りの連呼であるようでも、未来には感謝の気持ちを抱く私の言葉として、祈りは感謝の言葉を口にする。だから偽りではない。私の未来からすれば偽りではない。問題は現実逃避のように思える祈りではなくて、その言葉を口にするのに力が込められていないことだ。現実の今の堕落的私を強く強く否定して、必ずや成就する祈りの言葉として力強い感謝の言葉を連呼すべきだろう。脳裏を生じては逝き、生じては逝く、百万憶万の堕落の思いの言葉より、それらを否定しながらそれらを超える御父母様への感謝の言葉で上書きしていく。希望が神様と共にあるなら、悲観はサタンと共にある。悲観の気分としてサタンはひたひたと、さらしに水が浸みて広がるように私の心魂を侵食していく。現実の中に生きる限りはサタンの主管圏から免れることはないだろう。しかしサタンに主管された現実は、生きて歩む下水平の一次面に過ぎないはずだ。下水平に留まる限りは地上地獄だ。この下水平の一次面に隙間を生じさせることができれば、その隙間をして一気に流れ込み上水平へと次面を上げていく。その隙間こそが祈りだ。使い古された言葉の鞘を口籠るだけの言葉の連なりではなく、生きたみ言葉として力強く喉を通過する祈祷だ。破裂音に満ちた力強い韓国語が運勢をもたらすように、力強い生きたみ言葉こそが神様の堕落的私を施術するメスだ。祈祷は力強くあるべきだ。この喉が裂けるほどに力強くあるべきだ。朝の一日の出発は特にそうだ。

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