2015年12月26日土曜日

今日の想い 900

昔人生60年、今100年だ。少子化日本は高齢者人口比率が急激に増しており、老人問題で国自体が傾きかねない状態だ。顕著な寿命の延びは現年齢の7割掛けが実年齢だと言われ、確かに退職年齢を超えても十分に働き続けられる人がほとんどだろう。が、65を超えたらどうか、70を超えたらどうか、80に近くなったらどうなるか、と問うには若い頃の5年10年とは体調悪化も著しいし行動衰退も比べ物にならない。さらにそれは急に訪れる。或る時点で急に体力は衰え、急に要介護状態になる。人生100年に異論はないが、養う期間の延びは10年そこそこだと思うが養われる期間は30年も増えることになる。そこに少子化がおぶさると養われる者のほうが養う者よりもはるかに多く、姥捨て山と化すのは目に見えている。介護問題は国の根幹を揺さぶるほど大きな問題となっていくのであり、介護の質云々より先ず量をどうさばいていくかを考えなければならない。それには平成の開国、移民の受け入れ門戸を大きく開くべきであり、日本人は国に居ながらにして交差交体結婚への道を歩むことになるだろう。姉妹国家として台湾やフィリピンからの移民帰化から手をつける必要がある。台湾人は日本の国益に即した中国との交渉に大きな役割を果たすだろうし、フィリピン人は英語圏であるので対米を柱とする世界との提携を益々密にするはずだ。その為にはその流れを作って加速させる中心的役割である教会食口自体が変わる必要がある。教会自体が同じ二世との間の祝福結婚だけでは立ち行かなくなっている現状を皆はどう見ているのだろうか。二世同士に固執するのが本当に御父様の願いなのかどうか、交差交体結婚は同じ二世同士の上で言われた言葉なのかどうか、祝福の世界化は異なる宗教、異なる民族間で為していくものであって、二世同士であるべきだという感覚は同じ信仰を願う親の思いではあっても宗教を超えてはいない。イスラエル民族はカナン七族と交わったから信仰を失ったのか、それとも彼等の文化に影響されたから信仰を失ったのかどちらなのかを考えてみるべきだ。彼等と交わりながら(結婚しながら)彼らの文化を変え信仰生命を彼らに投入すべきではなかったのか。もはやこの世界は滅ぼされるべきだと天が判断し世界復帰摂理がストップされるなら、その時こそ二世同士に限られるべきだとも思うが、世界復帰は交差交体結婚がもっとも近道に違いない。み旨に立っていると信じる自分の方向性と摂理の方向性が一致しないなら、勝利圏には入らないだろうし天運が働くことも無い。独りよがりの信仰は、型から外れることへの影響を恐れ審判を恐れる隠れた堕落性であり、それを捨てることができなければ本当の意味での犠牲的歩みとはならない。教会体制維持への意志は主に一世の年寄り達によるものだ。教会活動に専念している二世達もいるが体制維持に倣っている一世の付録的役割に過ぎない。家庭連合は二世主導であって教会体制に捕らわれる必要は全く無い。敢えて体制に捕らわれないことが天の意志を受け継ぐことに繋がる。教会に囲われ保護され無ければ信仰を維持できないのであれば、所詮世界復帰摂理など声高にすべきではないし摂理を担当することもできない。日本が年寄りだらけになるのも見るに耐えられないけれども、祝福家庭達が年寄りだらけになるのはもっと耐えられない。

2015年12月22日火曜日

今日の想い 899

人間の脳は思考を司るのではなく思考回路を司る。この物理的脳から思考が発するという感覚があるから唯物論がまかり通ってしまう。それは唯物論を否定する私達も同様で、どこかで宿便のように残っている堕落的囚われがあって脳が発する思考という堕落結果思考を超えられない。脳が発する思考は本来的な思考ではなく過去の経験の産物の限定的思考に過ぎない。本来的な思考は過去の経験に縛られない完全なる自由発想であり、それは膨大な霊界図書館アカシックレコードから自在に引き出せる明晰さを兼ね備えている。人類は過去の二つの大戦を経験し何千万という生命が虫けらのように処遇される現実を見てきた。その現実を前にすれば誰もが言葉を失ってしまう。人間は死を前にして、殺される現実を前にして思考は止まってしまう。言葉を失うとはそういうことだ。原理を知りみ言葉を学ぶ者の一つの強みとして死を超える思考を手にすることができる。死を前にしても、生命を賭す必要を前にしても思考を紡ぎだせる。言葉を失うことはない。言葉には川の言葉と海の言葉がある。川の言葉は意識上の言葉、海の言葉は意識下の言葉だ。御父様のみ言葉はもちろん海の言葉だ。私達が原理を理解しみ言葉を重要視できるのは地上の領域から汽水域を超えて霊界の領域へと足を踏み入れる素養がもともとあるからだ。100回訓読が訓読のあり方としてはどうだろうかという異議も出したし、日本語翻訳もされていないみ言葉選集の全てを読み通せばみ言葉を理解したと言える訳でもない。勿論御父様は私達に対して八大教材教本の全てを持ち、全てを読み通し、一度ならず何度も読むべきだと話される。そうあるべきだとは承知した上で、しかしそうなる為には熱心なラビのように一日中教本を携帯し読み進めなければならないが、その姿勢は十分教条的であってこの世から浮いた存在になってしまう。果たしてそれをも願いだと言えるだろうか。私はもっぱらエイ!と開いたところを中心に前後して読み進めているが、それは開いたところが最も必要なみ言葉が記されていると語られたことに沿っていて、皆にも勧めたい。死の恐怖、犠牲になることへの恐怖は脳が発する思考に組み込まれていて、その川の言葉で死を超えることはない。死を凌駕できるのは海の言葉で、それは物理的脳から発せられる言葉ではなく神様からきた言葉だ。私達はみ言葉に接しながらも、頭の理解を通して、論議を通してわざわざ地の言葉、川の言葉に貶めてはいないかを気付かなければならない。海の言葉を理解できるようになると、死の意味は異なり思考の副産物としての恐怖はもはや影を潜める。御父様が死は堕落圏であり堕落圏を超えれば死ではなく昇華だと言われた意味を捉えられず、死は死で別の言葉に変えただけでやはり死だと思うのは海の言葉としてのみ言葉を受け取ってはいない。

2015年12月20日日曜日

今日の想い 898

人は人それぞれの観念の中で生きている。人どうし、その観念が他も当然同じだと信じていて同じ世界に生きていると思っている。外的地上世界が同じであるように、内的思考世界も相通じていると思っている。話せば分かりあえると思えるのは内的思考世界が通じているという前提でそう理解しているからだ。特に日本人は他民族や他の宗教の侵入から自然と護られてきたので、身に着ける武具も無いまま裸のままでいようとも話せば通じるはずだという御めでたい意見がまかり通ってしまう。同じ世界に生きているという感覚は教会の食口の間でもそうであり、自分の原理やみ言葉への理解と同じ理解に皆も立っていると信じていて、食口であれば同じ世界観に生きていると思っている。しかしここ数年の様相から、同じ食口でも理解が異なり異なる観念の中で生きていることに気付いてきた。ある意味これは現代版のバベルの塔だ。同じ原理、同じみ言葉を御父様から受け取りながらも、しかし理解が異なり話が通じなくなっている。それは理解が異なり始めた或る時点が生じ、それ以前の理解は同じものだったと、そう言えるのかどうかは甚だ疑問だ。実は始めからそれぞれ異なる捉え方をしていて、異なる観念が形となり表面化してバベルの塔化してしまったのではないかと思える。個人の観点に立って先ず言えることは、救いという理解から異なっている。救いは重生、すなわち生まれ変わることで為されるけれども、御父様が御聖和された今、誰に従えば救いに与ることができるかという選択を取る者がいる。それは御母様に従うということもまた選択だ。しかし救いの意味を理解した者は選択を取らない。取る必要が無い。理解しているということは既に個人的には救われているからだ。重生によって堕落とは関係の無い真の父母の血統圏から生じた新しい私の発生を認識している。新しい私、新生自分の成長は真の愛に因らなければ成長しない。どこに真の愛の光が射すかは思考的選択で見出されるものではなく、新生自分の中に内的霊的遺伝子として既に組み込まれている。それに従うこと、すなわち良心(神)に従うと言う事だ。御父様の言われる良心とは、重生した新生自分の願いを言うのであって、一般的に使われる良心のことを指して言っておられるのではない。新生自分という個人の理解が異なると家庭の理解、国の理解、世界の理解も当然異なり歪は度を増していく。よって同じ原理、同じみ言葉を受け入れたにもかかわらずお互いの理解の違いは大きくなってしまうという今の状態を呈している。しかしこの混乱を嘆く必要は無い。たとえ世界が滅びようとも嘆く必要は無い。新生自分が真の愛で成長していくなら瞬時に教会を立て直し、同じ真の父母の血統圏から生じた者達で国を形成し、世界を創っていく。旧世界の器を使うか使わないかは新生自分にとってさして問題ではない。新生という言葉を使ったが、御父様が新生を重生だと敢えて触れられたのは意味がある。重とは重なるということだが、堕落自分と新生自分とが重なっている。二重人格ならず二重自分を生きることで堕落自分を否定しながら新生自分を成長させている。心と体の一体化は体を否定するというのではなく、この堕落自分を否定しなければならない。新生自分を認識する者は真の愛の光に向いている。

2015年12月2日水曜日

今日の想い 897

アメリカは人種の坩堝だといわれるけれども、いささか古い言い方ではあるがその通り多くの人種が集まっている。当然店の従業員もいろんな人種がいるが、現在は中米とアジア圏の従業員で回している。キッチン、カウンターのプロダクトサイトはホンジュラス、エルサルバドル、ベトナム、ネパール、そして日本の兄弟で回している。ホンデュラス、エルサルバドルはスパニッシュ圏で言葉も同じ人種も同じだが何故かエルサルバドルはホンデュラスに対しては上から目線で対しがちだ。ベトナム人は魚の卸でも雇っていたから良く分かるが、勤勉であり労働意欲も強い。他のどの従業員よりも良く働くのがベトナム人だ。暇なときでも自らやるべきことを探して、時には人の仕事を奪ってもやるという風に、対時間人件費効率は他の従業員に比べてずば抜けている。手先も器用なので日本企業がベトナムに工場を作るのはもっともだと思える。今年に入って雇ったのが若いネパール人だが、日本料理も知らず使う食材も知らないという知識の量はマイナスだったが、彼を雇おうと思ったのは純粋さが言葉や表情から滲み出ていたからだ。特に澄んできれいな目に私は自分の子供に対するような感情さえ覚えた。フロアは中国、台湾、タイ、ベトナム、インドネシア、マレーシア、韓国で、日本人はいない。中国は広いので中国人と一括りにはできないが、先ず日本人が認識しておくこととして我良しが根底にあると思っておかないと裏切られ感は半端ない。自分の利益になるとわかると頭も回り行動力も優れている。アメリカの中枢部はアングロサクソンで占められていると皆思っているが、表向きはそうかも知れないが片腕や支えとなって遂行しているのは中国系アメリカ人が意外と多い。台湾人は日本人にも日本的マネージメントにも好意的で能力のない私を支えてくれる。タイ人は謙虚であり人当たりがいいのでサービス業には適していて、雇っていてストレスを覚えることは無い。インドネシア、マレーシアは他民族だがアメリカで働く多くは華僑系で自国の言葉も中国語の幾つかも話す。良い意味で能天気で日本人なら悩みこむようなことでも気にもしないという大らかさがある。小事で常に悩んでいる私に、だから禿げるんだと笑い飛ばす彼女らをどれほど羨ましいと思ったことか。韓国人は兄弟であれば誰もが知っている韓国人そのものだ。強情な人であれ物腰柔らかい人であれ、人に使われる身ではないという信念が奥にある。よって長続きはしない。ただ済州島の出身だという女性は忠実であり驚くほどよく働いてくれた。多人種とかかわりあって働きながら和の力こそが日本人の特性だというのがよくわかる。今現在フロアに日本人がいないので実にギクシャクしている。まとめる者がいないと俄然中国系が言葉を強くし、楽をして旨い汁にたかろうとしてくる。時に痛いところを突き、時に下手に出て、またある時は涙まで流してマネージメントを撹乱させる。だから遠ざけるのではなく、だからそこから学ぶのだと思えなければやっていけない。世界情勢の縮図がここにあり、世界平和への道はここで編み出される。道のりは長く途切れることは無い。30年営業を続けてこれたのは甘受の一言に尽きる。結局は忍耐した者勝ちだ。人に対してもそうだし霊界に対してもそうだ。期間が満ちれば次の扉が開く。

今日の想い 896

私が相対以外の女性に対するときはすべからく天使長の立場にあると思ったほうがいい。誘惑は天使長が仕掛けたのかも知れないが、エバは誘惑にのる様子を覗わせて天使長を誘惑している。私が天使長の立場に立つときエバは五万といる。路上ですれ違う女性は別としても、私という存在を男性として認識している女性は皆エバの立場だ。この世の男性は堕落も堕落の経路も知らず、よって妻以外の女性に対しては善の天使長よりも堕落する悪の天使長としての霊を迎え入れやすい。自ずと誘惑モードへの意志で女性に対し、女性は男性に対してしまう。抜き差しならぬ関係に発展すれば地獄を味わうであろう身の破滅に陥ることは承知しながら、それでも自分を主管できずに破滅への道を辿り始める。霊的無知による愚かさがそこにある。プラスとマイナスが正しく作用すれば善果を得るが、自己中心的動機で作用させれば悪果を得る。男性と女性との関係で全てが男女関係(横的関係)に至るわけではないが、神様を無視した天使長とエバの霊的事実が自分と相手を舞台に再現される可能性をどうしても関係上含んでいる。堕落してしまったエバに生じたのはそれまで想像だにしなかった悔いと負債による心の占拠だ。それはアダムに対するものもあるが、エバが自分という存在を存在たらしめている良神(心)への負債だ。エバは自分の良心を痛めることの堪え難い自分であることをその時思い知る。良心があってこその自分だと思い知る。エバも関係を結んで初めて自らの良心への目が開いてしまった。エバの本来関係を結ぶべきはアダムであったという良心の叫びを魂の痛みとして覚えた。エバにしてみれば自分という存在を否定されないためにアダムを誘惑せざるを得なかったのかもしれない。私が相対以外の女性に対するとき、自分の中に縦的関係を立てようとしているのか横的関係を結ぼうとしているのかを瞬時瞬時に察知しなければならない。前者は善の天使長として振る舞い、後者は悪の堕落の天使長を迎え入れようとしている。刻々と変わる状況の中で私の中に入り込む霊と出て行ってしまう霊の動きを見定めなければ、知らないうちに悪霊に主管されていって後戻りできない状態になってしまう。妹(娘)から妻、妻から母への位相転換(次元上昇)は、親なる神様認知のもとに女性の愛の門を開いて迎え入れると妻になり、女性の愛の門を開いて己の分身を放つことで母になる。兄(息子)から夫、夫から父への位相転換は愛の門を入ることで夫になり、夫婦一体としての妻から己の分身を放つことで父になる。妻の愛の門は縦的認知を受けることで霊的位相を高めていく門であるけれども、妻以外の門を通過しようものなら一度の使用間違いで落ちるところまで落ちていく。だからこそその器官は霊的問題に直結する恐ろしい愛の器官だと悟るべきだ。正しく垂直的に上っていく位相から横道に逸れてしまえば霊的に彷徨い始め、神の愛、真の愛という光を失ってしまう。光の無い地上生活が成り立たないように(目視を失うに留まらない)、神の愛の無い霊的生活は成り立たない。横的愛は感覚の喜びと直結しているのでなびきやすいが、縦的愛あっての横的愛だという事実を間違いを犯すことで悟るという愚かさは、霊的無知故のものだ。

2015年12月1日火曜日

今日の想い 895

第四次アダムを御父様の再臨として立たれる人物だという解釈をしている分派があるけれども、アダムが失敗したから第二アダムであるイエス様が救世主として立てられ、イエス様が霊的救いのみで実体的救いをもたらさなかったから第三アダムである御父様が再臨主として来られたのであって、第四アダムという救世主が必要であるなら御父様の完成完結完了を否定することになる。御父母様が勝利された人類の真の父母ではないということになり、第四アダムによらなければ実体的救いはないということになる。アダムと救世主を混同したままみ言葉を解釈していくと再臨主である御父様の再臨というような突拍子もない結論を導きだしてしまう。み言葉を隅々まで精査している訳ではないので説得力に欠けるかも知れないが、御父様が第四次アダムと言われる場合、第四次アダム圏とか第四次アダム心情圏とかという風に、圏という文字を付け加えておられる。そこには第三アダムが勝利されたから第三アダムに従い勝利した者達全体を捉えての圏だと思うのだがどうだろうか。メシヤも世界的メシヤは御父様お一人であるけれども、国家的メシヤはそれぞれの国に立てられているのであり、氏族的メシヤは私達の殆どが該当する。しかしメシヤという冠を与えられているからと言って御父様がメシヤとして失敗したから立てられた新たな救世主ではない。真の父母は過去にも未来にも御父母様だけだという言葉と、私達は皆真の父母にならなければならないという言葉の整合性をどう捉えるか。論理の躓きはみ言葉の部分部分を箇条書き的に捉えてしまうことによって起こるのであり、私達がみ言葉実体にならない限り何一つ断定できる理解は有り得ないという観点を失ってはならない。み言葉の人と言われるような存在になればなるほど論理の躓きで足をはらわれてしまう。今の時代、富んでいる者よりも知者の方がはるかに天国からは遠くなり得るいう自覚を、学べば学ぶほどに持つべきではないだろうか。何事にもバランスが大切であって本に向かう意識だけではなく周りを見る意識が必要であり、教会の兄弟達だけに接するのではなくこの世の人達にも接する必要があり、ビジネスをしているならそれが節理的であったとしても根こそぎ献金ではなく社会にも利益還元すべきであり、勿論担当している本人もそれ相応に受け取るべきだ。限定的に捉えてしまったみ言葉に特化して、そこに意識を集中させてしまうとカルト的になってしまう。私達は確かに戦いに負けてしまった分野もあって、それ故に日本は特に厳しい状態にある訳だけれども、反省点は反省点として学ぶのでなければ負けが只の負けになってしまう。氏族メシヤとして勝利しようと思うなら、勿論復帰への執念は強く持たなければならないが、社会に入り込んで頭目を現していく狡猾さを磨かなければ氏族メシヤも御題目で終わってしまうだろう。私達の直接的な言葉や行動に対しては当然の事としてひいてしまうのがこの社会だ。どれが正しいどれが間違っている等の神学論争はこの世の人の関心はなく摂理進展の何の役にも立たない。そこに一つの結論が出たとしてそれが本当に摂理を推し進めていく私達の力になり得るだろうか。それよりこの世の人相手に酒を交わして、本当は口にすべきではないが貴方が相手だから特別にと情を交流したほうがよっぽど摂理は進んでいく。あっ、、失言。