2018年9月21日金曜日

今日の想い 1003

9年前、頂上付近の山中で、捨てられた遺体の一部が発見された。浜田の女子大生失踪事件は、私の田舎の山で発見されて殺人遺棄事件となった。麓からギヤをセコのままで林道をくねくねと登っていくと頂上付近、道の途絶えたところに湧き水が出ている。山の湧き水目当てにポリタンクを積んで遠方からくる人は当時結構いて、そんな人達が周りを散策しているうちに発見したらしい。事件から7年が経とうとしていた頃、迷宮入りして解決は難しいと思われていたがやっと犯人が特定され、ある日突然そのニュース映像が飛び込んできた。被害者の無念な想いもさることながら、その山に見守られ育ってきたこの田舎の人間にしても、この事件によって故郷を蔑ろにされたようで何とも言えない嫌気感が心の奥でくすぶっていた。龍が臥して休んでいるような、そんななだらかな尾根伝いが臥龍山という山名とよく合っている。この田舎の発展を、臥した龍が傷を癒して天に上る日として待ち望みながら、しかし他の過疎地域と同様田舎に見切りを付けて出ていく者達は後を絶たず、今や龍が天に上る日が来ようなど信じる者は誰もいない。そんな状況で起こってしまったこの事件をどう理解したらよかったのか。被害者は犠牲として天が受け取るのか、それとも悪魔によって捨てられただけなのか。悲惨な事件だが、この手の事件はたびたび起こる。次々におこる事件が過去の事件を風化させ、今や地元の住民でさえ忘れかけている。しかしはっきりしていることは、被害者の親だけは過去の事実であろうが忘れることはできず、何年経とうとも心が癒えることはない。親は生涯を通して自らに問い続ける。子供に降りかかった悲惨な運命の正体を、それによって親が抱えざるを得ない責め苦が何なのか、どうして我が子なのかどうして我が身なのかを。それは犯人が特定された今でも問い続けて止めることはできない。この問いに対する答えは実は当事者が出す以外に、誰もどんな存在もだせない。人は必ず死ぬ。死ぬこと、この世を去ることで自らの人生を決定し結果を得る。その結果が地上生の出来事の全ての答えだ。そして当事者だけがその答えを得るのであって、他の者が意義付けしようとすれば結果を待たずに決定を無理に出すことであってそれは詮索好きな者の遊びに過ぎない。当の本人も、そしてご両親も、決して形ある言葉では表現しきれない霊的意味を、犠牲精神の尊さを天から受け取って欲しい。その祈りの言葉以外私には何もない。もしこの故郷の山中で、鎮魂の旅にこられたご両親に出くわしたとしたら、私はどんな言葉をかけるだろうか。おそらく言葉は何ひとつ紡げないだろう。犠牲精神の実体を前にして、涙し、首を垂れるしかない。

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