2018年9月5日水曜日
今日の想い 998
信仰生活の中で多くの疑問が湧いてくるだろうし、それらの回答のほとんどを受け取ることなく、追われる日々に埋没し忘れ去ったまま生きている。原理は聞いたけれども、み言葉は一度の地上生では消化しきれないほどに頂いたけれども、しかし疑問は減ることもなく、いやかえって増えているだろう。そんな状況でどのように氏族メシヤとして氏族を引っ張っていけるだろうか。み言葉の訓読は確かに大切だ。み言葉の中にこそ答えはあるというのはその通りだ。しかし答えを見出すも否も、私に答を受け入れる器があるかどうかだということを忘れてはならない。ということはただ待っているだけで訓読しても何の答えも得られないという事だ。待つことは器を用意する姿勢ではない。摂理だ摂理だとコロコロと変わっていく状況に合わせて歩んできたつもりだろうが、内心ではまた状況は変わっていくと思っていて、何一つ本気で事にあたってはいなかった。退路を断って事に当たってこそ器を用意することができる。そうして壁にぶち当たってこそ真剣に求める。それは訓読しながら文章の意味を問うのとは明らかに異なり、み言葉の意味を本当に問うている。メシヤとは何かを問うのに、私が何らかの救いを必要としていなければ、メシヤの意味を知ったところで何の意味もない。御父様がメシヤかどうか、では御母様はどうか、そんな論議をしていられるのは救いの必要のない人々だ。少なくとも私はそう言い切れるし、私自身は必要どころか切実だったしよって救いを得た。生きるも地獄、死ぬも地獄の、あの自我の分裂しそうな状況を抜け出せたのは御父母様への帰依に拠っている。若い人々は悩み抜くべきだ。悩んで悩み抜いてこそみ言葉を受け入れる器を用意できるし真剣に求める。地上天国が何かもわからない者達が地上天国を築いていく?誰もが即座に答えるだろう。あなたのイメージする天国は私が求めるものとは違うと、、。人間は霊的存在だ。霊的存在であることの意味は霊的に生きる為の何かを求めている。それが真の愛であることは食口にすれば疑う余地のないことだが、真の愛どころか愛に不慣れな、愛の何かを知らない者達にとっては愛を受けることから手ほどきしなければならない。そこにいきなりみ言葉をぶちこんでも豚に真珠だろう。私の環境圏にいる人々を愛し、親兄弟達を愛するところから出発すべきだが、果たして私達に彼らを愛するほどの力が備わっているだろうか。信仰生活を通して歩んできた数十年間は愛の訓練だったと言えるだろうか。愛の訓練として完璧だろうが適当だろうが今の愛の位相から出発する以外他に方法はないだろう。
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