2018年9月17日月曜日

今日の想い 1001

韓国には泣き屋がいる。総会をカネヅルにしている総会屋を雇っていちゃもんをつけるように、葬式をカネヅルにしている泣き屋を雇って弔いに花を添える。日本人にすれば何とも訝しい限りだが、だからといって一方的に否定して貶すのはよくない。清平またしかりだ。清平はある意味自分が泣き屋になる。泣き屋になって先祖を弔う。身を叩きながら涙の悔い改めをしながら、それは自分であって自分ではない先祖の諸々の霊達の解放されない想いや恨みを解放している。自分の内面に深く深く沈んでいくと、私という統一体の枷を外すことで統一体を成り立たせている一つ一つの霊達に出会える。それらが私という存在の基礎となっている。その基礎の霊達に私が何故に存在しているかの動機付けを天の心情に合わせることで私の解放は成就される。清平が尋常ならざるのは統一体としての私を遡っていく、すなわち時の流れに逆行するので仕方のないことなのだが、それが中途半端であっては返って霊的に支障をきたし清平大批判に繋がりかねない。清平は一次摂理が失敗したことによる二次摂理であって、それによる副作用も覚悟の上だった。今回痛哭祈祷による悔い改めの指示があったが、御母様による第一次摂理が軌道に乗らないため二次摂理の出発ということが痛哭祈祷の悔い改めの指示だろう。御母様の祈祷の中に恩赦という言葉も聞かれた。悔い改めあっての恩赦だろうから、中心的立場にいる二世達が御母様と一体化していないという理解を御母様がされたということだ。御母様は全面的に二世を中心として摂理を立てられたが、御父母様の願いを汲んでいないということが御母様と一体化していないという言葉に表されている。今回160日路程はより具体的な指示事項が出されているが、期待を背負っている二世達はここが御母様の信頼を得る正念場だろう。歌って踊って決意を差し出すだけでは願いに応えられない。実績を差し出すことを願われている。信仰をもって清平に来る二世も少ないけれども、清平で涙の悔い改めをしている二世はもっと少ないと思われるのだが、それは私の悲観だろうか。御母様の二世への期待を受けるに十分な二世の器だろうか。

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