2018年9月16日日曜日

今日の想い 1000

一体化するとは、、。絶対信仰とは、、。絶対服従とは、、。絶対愛とは、、。、、絶対とは、、。食口にとってこれらの言葉は決して新しい言葉ではない。御母様を中心として歩む以前から、先天の、それもかなり前から言わてきた言葉であり私達の歩みの姿勢のあるべき姿、態度として私達は捉えている。しかしこれらの言葉は本当に姿勢や態度としての言葉だろうか。そして姿勢や態度を間違えなければそれは良心が願う道と合致するのだろうか。姿勢や態度は繕うことができる、と言えば怪訝な顔をされるだろう。でも実際繕うことができる。本当のところは首をかしげているのに、あるいは訳がわからないのに、繕うことで自分を正しく導いてきたと誤解している。そして失敗を積み重ねてきた先天時代と同じように、自覚もなく自分を誤魔化して歩みながら、取り敢えずの不安要素を除くために周りに合わせ、合わせていれば勝利するだろうという何とも心許ないダロウ信仰で歩んでいる。ダロウ信仰は絶対信仰ではないことくらいは私にもわかる。自分の良心に嘘偽りのない絶対信仰絶対愛絶対服従としての自分の姿勢であり態度だと、確信して歩んでいるのならば勝利も確信しているはずだ。それは周りに合わせたり踊らされたりしているのとは全く異なる霊的に骨のある歩みであり、それ故に地上の実りも刈入れることができる。絶対信仰、絶対愛、絶対服従とは良心に対する言葉であるという、御父様のみ言葉は、今の混乱の時代に於いて、祝福を受け心情相続して真の父母の血統に繋がった一人一人が、個別にメシヤの称号を戴いた主体的位置で噛みしめなければならないみ言葉に違いない。烏合の衆化は一体化とは似て非なる状態だ。烏合の衆に本質はないし、真の血統に繋がった心情も生きていない。すなわち霊的に死んでいる。

0 件のコメント: