2018年12月28日金曜日
今日の想い 1029
神様はかわいそうで孤独な神様だと教えられた。しかしそんな神様を救おうと生きるには現実の自分はあまりにも脆弱だった。自分が生きるためだけに精一杯だった。先ず強くなりたいという思いに駆られると、教えられた神様像は私が信仰を維持するには不釣り合いだった。私の神様像は人情を超えて強くて愛するイメージに変わっていった。そして愛されたいという意識では神様には出会えず、自分がイメージする神様のように愛するという意志でこそ神様に出会えると信じた。私が神様に出会えないのは私の愛する意志、その意志からの行動に不足があるからと認識して、愛する訓練の月日を重ねてきた。献身生活も愛する訓練、献金目標を達成するのも愛する訓練、アベルに従いその度々に願われる摂理要求に応え、個人的な願望は捨ててきたのも愛する訓練だと何の疑問も挟まず信じてきた。しかしいつの間にかその行動自体に意味があると認識してしまい、愛する意志を得ることをいつの間にか忘れてしまった。従って私自身、愛の人格を備えているかと問われれば否と答えるしかない。確かに自由はそれなりに犠牲にしてきたかも知れない。しかし自由を犠牲にしてもそれと引き換えに愛する意志を備えられるわけではない。しかも中心者は愛する意志を持つという個性完成に関しては食口を気付かせないままにしており、個性完成への自由という翼は縛られたままだ。先祖祝福を達成させようと焦り、誰彼なく祝福させようと焦り、子供に形だけの祝福を受けさせることに焦り、しかしそんな祝福は神様が願われる本当の祝福だろうか。そこに愛する意志、為に生きる愛は投入されているだろうか。焦り故に清平に救いを求めて、そこに愛する意志が投入されていると本当に断言できるだろうか。真実はというと、結果だけを求めるのみで愛する意志などどうでもよかった。新約には、愛とは、、と始まる聖句に聞くに良い綺麗な言葉が並んでいる。しかし本当の愛は尋常では許せない者を赦し、打ち殺したい者を愛するという、それは聖句によってイメージされる美しい愛ではなく愛という名の熾烈な戦いだ。愛が戦いであるが故に私達は成約勇士であった。神様はかわいそうで孤独であると理解する以上に、戦われる神様であることを理解した方が、現実という食口への無慈悲な仕打ちを悲嘆しなくていいし、神様に対して泣き言を訴える必要もなくなる。事実、本人では蕩減的課題としては消化出来ないほどの現実を抱えている。私達は霊的戦いの最前線にいる。普通に人生を生きれば起こらないようなことを引き受けながら、それは祝福の理想を今現在生きているのではなく、祝福という人類の理想を獲得するための愛の戦いを生きている。
2018年12月22日土曜日
今日の想い 1028 (高次の事情と人間の事情 その2)
アダムとエバに陽と陰を分けなければ堕落はあり得なかった。愛の問題、というより愛の実である性の問題は神が創造された人の問題ではなく、主なる神が地上の土のちりで造られたアダムとエバの問題だ。原型は神の創造された人こそが原型で堕落とは関係がなく、イエス様はその原型を宿した肉体として地上生を歩まれた。御父様の勝利、御父母様の勝利圏は天の心情を相続され、その原型を宿すに至ったが故の勝利圏だ。御母様にしてみれば、超えてみればすべて愛であったとまでは現段階では言えないだろう。真の母として勝利されたと御父様に言わしめるまで、どれ程の困難があったか。その抵抗勢力の殆どは御父様の存在そのものに違いない。そしてそれが逆説的に御母様を真の母として勝利させた。最大の抵抗勢力が霊的には最高の位相に直行させる。絵に描いたような理想主義しか受け付けない現代社会であり、私達ですら真の父母や真の家庭への理想的イメージを掲げてきて、それとのあまりの違いに言葉も出ないが、そういう私達も理想家庭の幸福のイメージとは程遠い辟易する事情に翻弄され息もつけないほどだ。御父母様の祝福圏にある私達は、理想家庭のイメージからは想像もできないほどのありとあらゆる十字架を背負い、霊界に旅立って初めて、過ぎてみれば全て愛であったと口にする。霊界と地上界は裏と表であって、地上で病に侵されその不幸に立ち向かった分、霊界では健康体になる。健康への有難さが霊的健康体の力となる。地上で困難が多ければ多いほどそれに立ち向かう意志を強くせざるを得ないのであり、その意志こそが霊界に於ける霊的安寧の力となる。生きるとは愛する戦い以外の何物でもない。その愛が本物かどうかをありとあらゆる角度から試される。神に対して恨みの一言も言ったことがないという人間を私は信じない。神を恨むほどの困難に見舞われていないだけのことだ。私達は生涯、そして二世三世までも、苦労の百科事典であり続け、恨から始まるありとあらゆる涙を流し続ける。そうしながら私達の愛が鍛えられる。御母様は壇上に立たれて話されるときには涙が絶えなかった。涙で始まり涙で終えられた。その御母様は今、涙を封印された。敢えて神の権威を立てられながら私達が御母様に代わって地の涙の存在となることを選ばれた。私達はあらゆる涙を流し、恨みやもろもろの全てを愛に昇華させ、それでこそ全ては愛であったと言える成約勇士として正しく昇華できる。
今日の想い 1027 (高次の事情と人間の事情)
6段階の創造の最後に神は人を造られたとあるが、ここで認識しなければならない点がふたつある。男と女とに造られたと記してあるけれども、聖書の原本には男であって女に造られたとある。即ちここでいう人はアダムとエバではなく両性存在であって、二性性相の中和的主体である神と同じに造られたということだ。二つ目はこの人という存在は地上の人ではなく霊的な存在だ。それは創造の御業を終えられてから休息を取られたが、天と地を造られたとき野の木も草も生えていない、地上の人はまだその段階ではいなかったということになる。そうして主なる神が土のちりで人を造られたのであって、これこそが人間の肉体を持った初めての人間となる。ここでもう一つ触れておかなければならないことは、創造の6段階までは神の業だが、地上の人を造られたのは主なる神だ。私達は神と主なる神を同じ神として扱っているが、ここを素通りするべきではなく、主なる神(中心の神)とある以上創造した神は複数存在であることがわかる。御父様が晩年に語られた夜の神、昼の神は、夜の神は6段階創造までの複数的神であり、昼の神は地上の人を造られた主なる神、すなわち複数の神を一つにした中心的神だということが理解できる。昼の神は失敗したが夜の神は失敗しなかった。アダムとエバに陽と陰を分けなければ堕落はあり得なかった。しかし堕落はあり得なかったけれども、愛を愛らしくすることはできなかったはずだ。堕落した人類は蕩減の道を歩んできたと同時に、愛とは思えない身に降りかかる事情でありながらも、それを試練の愛として愛に昇華する戦いを繰り広げてきた。もしそうでないなら、蕩減復帰の事情に宛がわせる為いくつの魂を抹殺させるかという、低次の人間は高次の神のカードとしての役割に過ぎない。人間は愛ゆえに愛に帰依しているがゆえに永遠だ。犠牲は忘れ去られ消えてなくなる只の被害ではなく、至高の愛として永遠に輝く愛の実体化だ。
2018年12月11日火曜日
今日の想い 1026
私のように悩んで悩んで悩みぬいて生きる者もいれば、見ようによってはそんな単純な思考で割り切って生きていけるのかと思えるような者もいる。教会の食口は誰もが悩みぬいて来た同じ者達なのかと思いきや、食口の中にも単純で軽快な者達が意外と多いことが伺える。特にここ数年の混沌期にあっても、御父様御父様と口にしていたのにいとも簡単に御母様御母様と言えるほど割り切っている。そういう者達は概してポジティブであり、結果や現状に悲観もしなければどんな目標を与えられても喜々として前向きに捉える。そうしてそういう者達が先頭に立ってきたが、さして今まで結果が実った訳でもない。さらに結果が出ないことに対して責任を感じている様子もない。私のような人種からすれば遊び感覚のまま生きてきて子供がそのまま大人になったように思える。この違いがどこから来るのかと長年思っていたが、要するに霊的背景が異なっているのであり、私のような人種と敢えて言ったが人種が異なっていると言っても過言ではない。私のような人種は過去生が何度にも及ぶ古老の魂存在だが、単純な彼等は過去生が数度にしかならない若輩の魂存在だということがわかった。前者がカインの魂であり後者がアベルの魂だ。カイン魂はアベル魂を冷ややかな目で見ているものだが、そして案の定辛酸を舐めていないアベル魂は地上の実を収穫するには至らないが、しかしそれでもアベル魂を突き放すのではなく丁寧に教えてあげてしっかりと地上の実を収穫できるほどにしてあげてこそカイン魂は天が主管することができる。ブログ村で批判論評を繰り広げているのはカイン魂であり、御母様を持ち上げポジティブな言動に終始し、そのうち奇跡でも起こると信じて喜々としているのがアベル魂だ。しかしこれは魂の領域の話であって、神霊が共にあるかどうかは魂を超えた霊の領域であって、神霊という父を中心としなければカイン魂とアベル魂は一つにはなれない。地上の摂理は御母様が担われて当然だが、単純なアベル魂が御母様を支えていればそれでいいという話ではなく、御母様が本来の御母様として立てるようにカイン魂の立場でどのように行動するかにかかっている。ここにおいて父子共助という言葉が意味を為す。神霊(父)に沿わなければ只の御母様批判、家庭連合批判で終わってしまうからだ。
2018年12月2日日曜日
今日の想い 1025
キリスト教は善悪が明瞭に分かれている。神とサタンは相容れない領域をそれぞれが主管し、その領域を超えて働くことは普通あり得ない。善の行動に悪が関与することはあり得ないだろうし、その逆もその通りで混同する曖昧さを許さない。それ故にキリスト教は教条主義的でもある。初期のキリスト教が敵視していたのがマニ教だった。キリスト教がユダヤ教の系統からくる一元論であるのに対して、マニ教は二元論だ。しかしマニ教で言うところの二元論を詳しくみると、善に抵抗することを悪というなら悪は滅びることはないという意味であって、悪を肯定し悪であることを当然とする訳ではない。神が光あれと意志された天地創造の一段階から、神の意志に抵抗する存在は存在し、それ故に絶対信仰、絶対愛、絶対服従をして神御自身通過しなければ創造の業は為し得なかった。マニ教流に述べるなら、善の中に抵抗する力が悪の芽として存在しており、悪の中に悪を超えて善の花を開こうとさせる善の芽が存在している。御父様流に述べるなら、過ぎてみれば全て神の愛であったと語られるその一言に凝縮されている。ようするに抵抗も神の愛だということだ。人類歴史がここまで流れてきた背景には、人間精神の前進に対して抵抗する力に屈しなかったとも言えるし、抵抗する力を受けることで前進はより免疫力を備え、抵抗する力に逆説的に力を得てきたとも言える。マニ教の信者達は彼等自身のことを寡婦の息子達と呼んでいた。古代から流れ伝えられてきた秘教では、神霊として魂に働きかける存在を父と呼び、受け取る魂を母と呼んだ。人類は堕落によって地に下ったので人間の魂から見ると天の神霊は亡き者となってしまった。よって人間の魂は夫を失った妻の位置にある。ギリシャ神話のオシリスとイシスも同じ関連性の話として伝えられている。御母様もその関連性でみると御父様を亡くされた寡婦の立場であり、私達は寡婦の息子達娘達だ。実体み言葉として御父様が立たれておられれば、抵抗を悪として前線を明確に引き、抵抗に対して戦う意志を全面に打ち出して歩んだが、御父様が聖和されて寡婦の息子娘達となった今、抵抗の力を敢えて近付けながら、そして抱擁しながら逆説的な前進の力を得て行くという私達の在り様にならざるを得ないと思われる。文在寅大統領が親北であり政権は左翼思想に浸かっているが、御母様が中心の後天時代、思いもよらない御業が働いて摂理に前進的になるやも知れない。何があっても不思議ではない時代圏を生きている。
2018年12月1日土曜日
今日の想い 1024
夏が去り、秋が去り、冷たい冬が木枯らしに先陣をきらせてやってくる。私はというと、木枯らしはおろか、冷水を浴びせられて夏と秋の夢から冬という現実に引き戻された。こんなショックで魂の冬に連れ戻されるとは思ってもみなかった。今思うとこの夏は夢心地だったのかもしれない。日々の仕事から解放されて、寂しくもあったが安堵の方が大きかった。これからすべてうまくいく。そんな心地よい夢を見ながら、生きて果たす使命を忘れていた。冬の現実に引き戻されて使命を思い出したのではなく、為すべきことを忘れることの結果を先ず見せられた。苦痛と孤独の現実という結果だ。この冬はどこかに置き去りにした自分の使命を探さなければならない。それは自分の生きることの目的であり意味だ。いつから迷い道に入ったのだろう。いつどこで捨ててしまったのだろう。神はこの目に見えることはないし耳に声することもない。その感情を直接表すこともされない。しかし神の使いは現実という変えられない事実に手をかける。現実を通して神の使いの意志を知り、手足である神の使いを通して神の想い、心情を尋ねる以外ない。厄介なのは神の使いが無表情なことだ。私の内臓が無表情に働いているように、神の使いである天使達も無表情に意志を下す。この天使達のやり方にどれほど憤ったことだろう。何度こぶしを振り上げたことだろう。言葉もなければ前触れもなく、表情すら捕らえられない天使達。しかしそんな私にお構いなく、淡々と行動に移す。妻が病に翻弄されたときもそうだったし、心を開かない子供に感情を弄ばされたときもそうだった。しかしだからと言って神も無表情であるはずがない。喜怒哀楽を共にする神であればこそ喜怒哀楽の生身の人間がここにいる。論理はそうだけれどもその神に合おうとすればそこに私の信仰が要求される。だから信仰を繋いでここまで来た。未だ神の心情に直に触れる体験はなかったとしても、信仰で希望をつなぐ以外道はない。束の間の儚い自由は冬の現実にたたき起こされることで露と消えた。儚い自由の代わりに繋がれたまま切れない罪の鎖が足首に喰いついている。
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