2018年12月2日日曜日

今日の想い 1025

キリスト教は善悪が明瞭に分かれている。神とサタンは相容れない領域をそれぞれが主管し、その領域を超えて働くことは普通あり得ない。善の行動に悪が関与することはあり得ないだろうし、その逆もその通りで混同する曖昧さを許さない。それ故にキリスト教は教条主義的でもある。初期のキリスト教が敵視していたのがマニ教だった。キリスト教がユダヤ教の系統からくる一元論であるのに対して、マニ教は二元論だ。しかしマニ教で言うところの二元論を詳しくみると、善に抵抗することを悪というなら悪は滅びることはないという意味であって、悪を肯定し悪であることを当然とする訳ではない。神が光あれと意志された天地創造の一段階から、神の意志に抵抗する存在は存在し、それ故に絶対信仰、絶対愛、絶対服従をして神御自身通過しなければ創造の業は為し得なかった。マニ教流に述べるなら、善の中に抵抗する力が悪の芽として存在しており、悪の中に悪を超えて善の花を開こうとさせる善の芽が存在している。御父様流に述べるなら、過ぎてみれば全て神の愛であったと語られるその一言に凝縮されている。ようするに抵抗も神の愛だということだ。人類歴史がここまで流れてきた背景には、人間精神の前進に対して抵抗する力に屈しなかったとも言えるし、抵抗する力を受けることで前進はより免疫力を備え、抵抗する力に逆説的に力を得てきたとも言える。マニ教の信者達は彼等自身のことを寡婦の息子達と呼んでいた。古代から流れ伝えられてきた秘教では、神霊として魂に働きかける存在を父と呼び、受け取る魂を母と呼んだ。人類は堕落によって地に下ったので人間の魂から見ると天の神霊は亡き者となってしまった。よって人間の魂は夫を失った妻の位置にある。ギリシャ神話のオシリスとイシスも同じ関連性の話として伝えられている。御母様もその関連性でみると御父様を亡くされた寡婦の立場であり、私達は寡婦の息子達娘達だ。実体み言葉として御父様が立たれておられれば、抵抗を悪として前線を明確に引き、抵抗に対して戦う意志を全面に打ち出して歩んだが、御父様が聖和されて寡婦の息子娘達となった今、抵抗の力を敢えて近付けながら、そして抱擁しながら逆説的な前進の力を得て行くという私達の在り様にならざるを得ないと思われる。文在寅大統領が親北であり政権は左翼思想に浸かっているが、御母様が中心の後天時代、思いもよらない御業が働いて摂理に前進的になるやも知れない。何があっても不思議ではない時代圏を生きている。

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