2018年12月1日土曜日
今日の想い 1024
夏が去り、秋が去り、冷たい冬が木枯らしに先陣をきらせてやってくる。私はというと、木枯らしはおろか、冷水を浴びせられて夏と秋の夢から冬という現実に引き戻された。こんなショックで魂の冬に連れ戻されるとは思ってもみなかった。今思うとこの夏は夢心地だったのかもしれない。日々の仕事から解放されて、寂しくもあったが安堵の方が大きかった。これからすべてうまくいく。そんな心地よい夢を見ながら、生きて果たす使命を忘れていた。冬の現実に引き戻されて使命を思い出したのではなく、為すべきことを忘れることの結果を先ず見せられた。苦痛と孤独の現実という結果だ。この冬はどこかに置き去りにした自分の使命を探さなければならない。それは自分の生きることの目的であり意味だ。いつから迷い道に入ったのだろう。いつどこで捨ててしまったのだろう。神はこの目に見えることはないし耳に声することもない。その感情を直接表すこともされない。しかし神の使いは現実という変えられない事実に手をかける。現実を通して神の使いの意志を知り、手足である神の使いを通して神の想い、心情を尋ねる以外ない。厄介なのは神の使いが無表情なことだ。私の内臓が無表情に働いているように、神の使いである天使達も無表情に意志を下す。この天使達のやり方にどれほど憤ったことだろう。何度こぶしを振り上げたことだろう。言葉もなければ前触れもなく、表情すら捕らえられない天使達。しかしそんな私にお構いなく、淡々と行動に移す。妻が病に翻弄されたときもそうだったし、心を開かない子供に感情を弄ばされたときもそうだった。しかしだからと言って神も無表情であるはずがない。喜怒哀楽を共にする神であればこそ喜怒哀楽の生身の人間がここにいる。論理はそうだけれどもその神に合おうとすればそこに私の信仰が要求される。だから信仰を繋いでここまで来た。未だ神の心情に直に触れる体験はなかったとしても、信仰で希望をつなぐ以外道はない。束の間の儚い自由は冬の現実にたたき起こされることで露と消えた。儚い自由の代わりに繋がれたまま切れない罪の鎖が足首に喰いついている。
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