2018年12月22日土曜日

今日の想い 1027 (高次の事情と人間の事情)

6段階の創造の最後に神は人を造られたとあるが、ここで認識しなければならない点がふたつある。男と女とに造られたと記してあるけれども、聖書の原本には男であって女に造られたとある。即ちここでいう人はアダムとエバではなく両性存在であって、二性性相の中和的主体である神と同じに造られたということだ。二つ目はこの人という存在は地上の人ではなく霊的な存在だ。それは創造の御業を終えられてから休息を取られたが、天と地を造られたとき野の木も草も生えていない、地上の人はまだその段階ではいなかったということになる。そうして主なる神が土のちりで人を造られたのであって、これこそが人間の肉体を持った初めての人間となる。ここでもう一つ触れておかなければならないことは、創造の6段階までは神の業だが、地上の人を造られたのは主なる神だ。私達は神と主なる神を同じ神として扱っているが、ここを素通りするべきではなく、主なる神(中心の神)とある以上創造した神は複数存在であることがわかる。御父様が晩年に語られた夜の神、昼の神は、夜の神は6段階創造までの複数的神であり、昼の神は地上の人を造られた主なる神、すなわち複数の神を一つにした中心的神だということが理解できる。昼の神は失敗したが夜の神は失敗しなかった。アダムとエバに陽と陰を分けなければ堕落はあり得なかった。しかし堕落はあり得なかったけれども、愛を愛らしくすることはできなかったはずだ。堕落した人類は蕩減の道を歩んできたと同時に、愛とは思えない身に降りかかる事情でありながらも、それを試練の愛として愛に昇華する戦いを繰り広げてきた。もしそうでないなら、蕩減復帰の事情に宛がわせる為いくつの魂を抹殺させるかという、低次の人間は高次の神のカードとしての役割に過ぎない。人間は愛ゆえに愛に帰依しているがゆえに永遠だ。犠牲は忘れ去られ消えてなくなる只の被害ではなく、至高の愛として永遠に輝く愛の実体化だ。

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