2019年12月28日土曜日

今日の想い 1049

少なからず尊敬していた諸先生、諸先輩が反旗を立てると、食口達は途端に彼等は霊的におかしくなったとかサタンに奪われたとか当然のように断罪して不信仰の烙印を押してしまう。上の意見に同調することを当然としている。そうはいっても彼らは疑問のいくらかはよぎるのだろうか。御母様の元に留まるのは正しいとしても、だからといって出ていった先生方をサタン視するのは間違っている。信仰歴も信仰も、み言葉に精通しているのも、当然自分よりも素晴らしいのは確かであり、ましてや御父母様の間近で侍ってこられた方々だ。どうして全てに勝っている方々が反旗を立てるに至ったかを尋ねることはないのだろうか。私が天に尋ねた限りでは、既に先天時代の慣れ親しんだ観では相対できない時代圏になってしまったという結論が降りてくる。願われる信仰の在り方も先天と後天とは大きく異なる。天地創造の史実を聖書にみるように、全く新しい時代であり、ということは新しい天宙ということであり、混沌の中に光を放たれて創造が為されたように、環境創造は真の家庭を含めた統一食口達の混沌と、それを投射するような地球と世界のあらゆる混沌の中に真の愛が放たれて新しい天宙、後天開闢時代が出発する。しかし創造は自由意志あってこその創造だ。教条的で受動的で指示待ち族に留まる限りは創造とは無縁の存在だ。かの国で飼い慣らされた民からは革命は起こらないように、先天信仰にどっぷり浸かり、裁きを恐れて罪の許しを請うばかりで、どうしてそこに新しい時代の息吹が感じられるだろうか。ある意味、私達誰もが反旗を立てた諸先生、諸先輩に続くべきであり、先ず本心の声を発する意志を発動させて口を開くことだ。言いたいことも憚れるような組織で一体何の自由がもたらされるのだろうか。良心が解放されなければ自由の精神は立たない。

2019年12月26日木曜日

日本でのクリスマス

今年のクリスマスは日本で迎えることになった。最近はアメリカのクリスマスも随分商業的になってクリスマス当日も開いている店も多く、どちらで過ごしても同じようなものだが、日本でメリークリスマスと挨拶するような習慣はないのでその点は向こうのほうが雰囲気はあるだろうか。このクリスマスの雰囲気はキリスト教波及の最も大きな役割を果たした立役者だろう。イメージ(知)と雰囲気(感情)が相働いて(授受作用によって)キリスト教文化圏を今日まで広げてきた。私達には原理という論理はあるけれども、それは科学的ではあるが知としてイメージできるほどに駆り立て、万人が受け入れるという雰囲気が欠如している。原理の生活化とよく言われたものだが、それは教条的なものを言っていることは確かで、そうなると普通の人が心を開く雰囲気とは異なって益々受け入れがたいものとなる。御父様が言われた平準化の意味を知って、生活化に真の愛の雰囲気が漂うという行動に移すようになるまで、私達の群れは偏見から逃れられないだろう。今日はクリスマスだけれども親戚の葬儀があって参席してきた。多くは大人だから私のことを知ってはいても敢えてそのことに触れはしない。しかし親戚の中には昔からの幼馴染もいて根掘り葉掘り聞いてくる者もある。私は一通り棘のある相手の質問を聞いた後、先ず既に卒業したことを敢えて述べる。そうしないと話はいつまでも噛み合わないし当然心も開かない。相手の懐に入らない限り伝道も氏族復帰も絵空事だと私は信じている。だから今日も誰よりも頭を低くし、浄土真宗本願寺派の慣習にしっかり従い、念仏もしっかり唱え、そうすると安心して誰も私に対して構えることはなくなる。本当の氏族復帰戦略はそこからだ。念仏を唱えながら、それでも私はただ雰囲気に酔っていたこれまでのクリスマスとは異なり、一人の霊魂を霊界に送る祈りを捧げ、クリスマス以上のクリスマスを今日は過ごしたと思った。

2019年12月21日土曜日

仏作って魂入れず

食口は信仰と愛ゆえに他の兄弟と繋がり中心者と繋がり、そして御父母様に神様に繋がっていると思い込んでいるが、一歩外から眺めると抜け出せないヤクザと同等に思われている。祝福儀式である聖酒式そのものが親分の息のかかった女性を宛がわれて契りを交わすというヤクザそのものだ。しかし我々がヤクザと変わりないと言えばヤクザはいい顔をしないだろう。本来のヤクザは義兄弟の血を意識し流す血を目にもして、血の繋がりを全体生命としてその血縁の中でこそ自分は存在していると認識しているが、私達がどれほど心情に根差した血統血縁関係を食口間に見るかは疑わしい。私達の真の父母を頂点とする血統圏は霊的なものであるから、感情を超えて心情にまで至らないとその結びつきは教条的なものだけで済ましてしまう。本当の統一食口なら心情で繋がっていることを自覚すべきであり、背後に心情が溢れ流れていなければ活動も目標も結果も、そして御父母様も神様さえも意味がない。本当はヤクザ以上に濃い魂の関係性を持つ群れであるのに、御父母様に魂を預けてきたはずが、実は負われてすがることに終始し魂を捨ててしまったので返して戴く魂はなく、後天時代は良心革命でそれぞれの良心(神)に従うべきなのにそれが為せずに教条的な外的信仰様相に留まるしかない。そうなると信仰と愛で繫がっているのではなく教条的な決まり事で繋がり教会という枷をはめられて抜け出せないだけだ。仏作って魂入れずの言葉の如く、信仰だ愛だといいながら自分も人生も、魂も霊もないもぬけの殻だったことに気付くとなると悲劇であり、あの世に行ってすら、いとも簡単に受けた祝福を恨みにすら思うだろう。

感情について

喜怒哀楽の感情を通して霊達は存在を現す、と以前にも記したことがある。先回のミーティングで自分の思うところを正直に述べると、ある食口は怒りを露わにした。彼の怒りの正体は一体何だろうかと語気の強い言葉を黙って聞きながら内面に尋ねてみた。実は反発を買うのは今回が初めてではない。今年初めのミーティングでも他の食口から、皆の面前で私はサタンだと言われた。口に出した本人はその決め付けを当然だと思っているらしい。私はそれを黙って聞いていた。悲しくは思ったが怒りを覚えはしなかった。全くなかったといえば嘘になるが、悲しいという別の感情の方が強く湧いていた。今回も悲しく孤独な自分を味わった。ただ、たとえ食口であっても本音をそのままぶつけるべきではなく、建前で対する必要もあることは学んだ。人は普通怒りをもって対されると怒りでもって返そうとする。怒りの霊が怒りの霊を呼び起こしている。私自身も反発感情が込み上げないことはないが、別の感情で対処すべきだということは長い信仰生活で学んでいる。それが後天時代に於いても正しいかどうかは疑問がある。怒りという感情それ自体が罪とは思わないが、怒りに対してどこまでも怒りで対処するのは罪だ。感情の爆発を誘発させる、所謂罪の繁殖だ。私には私の良心(神)がいくらかは働いていて、感情に翻弄され感情そのものに主管されないようリードを取ってくれている。しかし価値の創造を為さんとする者は感情豊かな存在であるべきというのもあって、素晴らしい作品を残した多くの芸術家達はその破天荒な性格や感情の起伏の激しさを指摘されていて感情という魂の活動が価値創造と関係していることがわかる。核分裂も電子力発電のようにコントロールされているとその価値を正しく主管され用いられるように、感情も起こさないというコントロールではなく感情作用をどう主管して用いるかで価値創造を発揮する。食口は抑え抑えていた感情の枷を先ず外すことが必要だ。その意味では私が悪者になるとしても皆の感情を引き出せたことは意味があると自負している。

2019年12月10日火曜日

今日の想い 1048

食口は最も孤独な時代(期間)を今戦っている。真の愛に生きることの定義が与えて忘れることであるなら、御父母様であれ神様であれ隣の心優しい兄弟姉妹であっても、誰からも愛を期待する立場にはない。そのように御父母様からも神様からも無視された立場で、それでも私自身が愛の発信者となって真の愛に生きる生活を為すことを願われている。食口達もあてにはならない。ここぞという時に冷たい存在だと思っていた方が躓かずにすむ。40日清平修練会で動悸が急に激しくなり、それが一晩中続いて息もからがら死ぬ思いをしたことは前に記したが、ある兄弟ひとりを除いて、私の激しい呼吸にうるさいと声を荒げる者はいても心配してくれる兄弟は他誰もいなかった。つくづく兄弟姉妹とは名ばかりで冷たいロボットのように思えたものだ。しかしそれも当然といえばいえる。愛の人格者になることが清平へ来る目的ではなく、それぞれが思い込んでいる救い(御利益)を得る為に清平に来ているからだ。自分だってそうだ。単純に修行が苦しいというのももちろんあるが、先祖解怨に愛の人格は要求されずひたすら修行して内面の罪らしきものを暴くことが救いの為の条件だ。しかし清平に限らず食口が目指すものはノルマの達成であったり指示された事柄に専念することであって、それが真の愛の人格とどういう関係にあるのかよく考える必要がある。個人の事情、教会の事情がどうあれ、それでも新しい時代は開いてしまった。新しい時代は愛溢れる世界だと先天意識で期待していたが、じつは新しい時代は真の愛が要求される時代だ。愛を受ける受け身の時代ではなく、愛溢れる世界にするために惜しみない愛を差し出さざるを得ないという能動的主体的時代だ。

2019年12月7日土曜日

今日の想い 1047

言葉の中に神様がおられる。言葉の鞘を取るとその本質が神様だ。人間は言葉を使いながら言葉の本質を探し求めている。御父様が語られたみ言葉は神様の新しい鞘であり形状だ。私達は新しいみ言葉を受け取り、何度も何度も内面で噛み砕きながら神様を求めてきた。私達がみ言葉を通して求めてきた神様も、この世の人達が言葉を通して求めている本質も、実は同じだ。み言葉は受け取ったけれどもより本質を求め神様の願いに適った歩みをしているのは決してみ言葉を受け取った私達ではない。言葉は全ての人間が使っている。言葉を使いながら内外の活動をしている。み言葉を知っているという選民意識は後天時代では通用しない。言葉の本質を探し求めてもいなかった者が、み言葉を知っているというだけでどうして神様に近い存在だと言えるのか。この世の荒波に揉まれながらありとあらゆる問いの言葉の本質を求めてきた、その積み重ねが人類の内外の宝となっている。いきなり独善的にもみ言葉という鞘を直接語り伝えようとしたところで、どこの誰が内面に落とし込めるのか。私達はみ言葉の理解どころか、言葉の理解すら曖昧であり人間社会に対して素っ頓狂だ。先ずは普通の人々に普通の言葉で授受しながら彼等が掘り進めてきた本質の価値を共有するところから始めることだ。人間関係を深めるのは言葉を通じてしかない。私達は神様を伝えるのではなく、言葉によって深められた人間関係から神様を見出すのであり、相手の只中に神様を発見して気付いていない相手に伝えることだ。み言葉は言葉を底上げし言葉に寄り添ってこそその価値を発揮するはずだ。いともたやすく愛という言葉を使ってきたけれども、愛の重みをより味わっているのは果たして私達だろうか。犠牲がひとつの愛の形だが本当の尊い犠牲はそれすら知らずに受け取る彼等の身悶えであり、それを通過した者は等しく神様を内在させた顔を見せている。私達は摂理を担ってはきたけれども、本当に苦労してきたのか犠牲を払ってきたのか良心に問うてみるべきだ。私達が神様が認めるアベルであるなら、守られもせずあらゆる苦労を担ってきたカインであるこの世の人達に感謝すべきであり、また謙虚に教えを乞うべきだ。食口の多くは未だに独善的すぎる。