2022年1月24日月曜日

今日の想い 1131

 人間は言葉でできている、というのはその通りだろう。時間と空間を言葉で理解し、言葉で満たし、そして言葉で自分を壊して、形成して、そしてまた壊す。昼の目覚めている意識下ではあらゆる言葉と囁きを脳裏に反射して溢れさせ、ある言葉は捨て、ある言葉はなだめ、ある言葉は前に立たせ、それらの言葉達の中心を立てながら統一体としての私を時空に航海させていく。夜には夜で無意識の彼方に、新たに組み立てられた言葉の数々を差し出し、明日を生きる生命と引き換えにする。紡いで差し出す新たな言葉が亡くなれば、それは地上生の終焉を意味する。人間は言葉の河を支流から大河へと生きるのであり、霊界の住人達は生きて差出し続けた言葉の海に生きている。しかしこの言葉が問題だ。言葉に、生きた命の言葉と死んだ言葉がある。ヨハネ福音書の冒頭に、言葉に命がありこの命が人の光だったと記されているように、生きた命の言葉で自分を満たし時空を理解し自分という存在を輝かしい恒星に創造する。人間は全てそのように願われて、この世界に産まれ出ている。この霊的光は地上では愛と表現される。光を周囲に照射できる存在は愛が深く大きい人間存在だ。あらゆる対象が存在するこの世界で、万物に対し、他者に対し、自分自身に対しても自我の在り様をどう恒星存在にしていくかだ。そして命の言葉は神から来る。命の言葉には瑞々しくも愛おしい、親なる神様の涙の想いと感性が刻まれている。

2022年1月22日土曜日

今日の想い 1130

 人生を歩む上での社会的な定型がある。小中高大と進んで就職して結婚して子供を産んで育て孫に恵まれ死んでいく。その路線をイメージされるままに進んでいくことが人の願いであり、それこそが幸せだと思っている。同じように食口は教会の取り決めを当てはめて、その教会路線に従って生きるのが幸せだと思っている。祝福を受け、選べない相対と仲睦まじく暮らし、子女をもうけて祝福まで漕ぎつけ、そして子供の家庭と孫に囲まれ聖和式をもって人生を終える。一方では祝福の価値を信じているというが、現実は相対の器量や性格を気にするし、愛されて平安な家庭生活を望んでいる。二世の祝福の証しを聞いても、優しい人で良かったとか、楽しく夫婦生活を送れてよかったとか、祝福の本質とは関係のない、一般人と同じ感想しかないようで、そんなこの世の平安を受け取るのが祝福かのように思えて、結局アボジの祝福の意義は何だったのかと思う。祝福の本質は、自分の好みを捨てて状況によっては嫌いな相対を宛がわれ家庭生活を出発するというように、平安とは真逆の荒波状況に身を置くのであり、それは正に愛されるのではなく愛を与える、すなわち犠牲になることが祝福の本質だ。真の愛とは避けたいことを甘受する犠牲そのものだ。真の愛は熾烈な内的闘いであり、それを隠そうにも隠せない感情の衝突や爆発であり、当然怒りや悲哀にも明け暮れる。そうまで打たれて初めて磨かれる霊性が立つ。祝福は時として地上の地獄かもしれないが、そこを通過した者しか望めない天上霊界を受け取れる霊的感性を備えることができる。にも関わらずギクシャクしないこと、ぶつからないことに四苦八苦するだけなら祝福を戴いた意味はないだろう。

2022年1月9日日曜日

今日の想い 1129

 日本の信仰は実は信仰ではなくて、信仰に名を借りた縛りがUC全体のイメージとしてあり、その取り決めを守らなければUC天国に入れてもらえないという、その恐れが縛りの表裏となっている。そこには信仰を持つことの喜びはない。取り決めを守ることに専念する意志とそれを守らないとどうなるだろうという不安の感情は、信仰を持つ喜びへとは向かわない。アボジは日本は忠孝の源だと言われたが、その従順な国民性が後天時代に必要とされる自主性と自我の成長を妨げている。二世は八割方がUCと距離を置いていると言われるが、距離を置かずにUCと一世である親の思惑の傘の中で生きている二割の方が本当に心配だ。UCと一世の親にしてみれば、距離を置いている八割の二世を心配しているのかも知れないが、実は縛りと恐れで自我を抑え込んでいる二割の二世こそが、その心魂を抑圧し人間性を否定しかねないほどの危険を孕んでいる。距離を置いて離れたともされる八割の二世の分までも祝福二世として期待を背負わされるからだ。アメリカは「私」を主張し主張しなければ追いやられる社会だが、その社会の中で日本的信仰を強いられる日本の二世はそのあまりのギャップに潰されてしまう。幾つかの悲劇を私の間近な周囲にすら見てきた。一方で主体性自主性を要求され、今一方で自己を否定する従順信仰を要求される。自らの精神の安定を図ろうとすれば、主体性自主性を否定して意欲のない魂の抜け殻人格を持つか、或いは従順信仰の在り方を否定してUCと親に背を向けるかだが、その狭間で揺れる精神的苦痛に喘いでいて救われるとはとても思えない。UC全体も一世もその根本的問題を無視して問題視していないのは、教条的信仰による心魂の抑圧、すなわち思考感情意志の働きに自由がなく、信仰による喜びがないから愛を紡ぎ出せずにいる。愛によらない形ばかりの献金も伝道も一体何の意味があるのだろう。一世はこの根本的問題を解決しなければ二世に対して大罪を犯すことになる。

2022年1月7日金曜日

今日の想い 1128

飛ぶように過ぎ去る月日は、私が摂理の本流を捉えてはいないことを証明している。摂理的使命を得た者が時を制する重要な役割であり、時の推進力を抑制しているからだ。神様が摂理的期間を決めて高みの見物をしているわけではない。神の一群が使命を帯びた者達と共に、摂理的進展を阻む高次の群れとの綱引きで摂理的期間は決められ、摂理的目標は設定される。アボジが聖和された後、残された摂理的内容は多岐にわたるが、南北統一と海洋摂理は大きな二本柱だったはずだ。願われていた南北統一の摂理は、今その中心的役割を持つ者は果たしているのだろうか。今の情勢を把握し南北統一へのマイルストーンを見極めている者達のことだ。かたや海洋摂理も同じで、アボジ不在の地上でその摂理的重要性を認識して責任を感じている者が果たしているのだろうか。釣り等のレジャー事業を含めたボート摂理はどうなった、食料問題を解決すべく建てられた漁獲から流通消費までの水産摂理は、二世教育の中心的役割を持つはずのオーシャンチャーチは、、。各部署の連携はおろか、摂理そのものに対しての観すら立っていない。H2グループでさえトランプの重要性を見抜き左傾国家と左傾化する社会への危機感を抱いている。しかし家庭連合の中にはそんな指摘もされず活動もなくそんな空気さえもない。世界摂理の舵取りは既に私達を抜きに進められているかのようだ。世界はコロナで一変したけれども私達の意識が目覚めるまで度重なる災禍に更に追いやられていくだろう。先進国家の無茶苦茶な金融緩和と資産バブルの崩壊で、遂に今の経済システムが働かなくなったとき、食料さえも手に入らないという状態にならないと人の意識は変わらないのだろうか。

2022年1月5日水曜日

今日の想い 1127

 留まっていることをアボジは願われるだろうか。常に前進するように顔も体も作られているように、精神の発展なくして生きているとは言えないだろう。御言葉の箇所個所だけを取り上げて、こうあるべきだと言い続けることが発展に貢献するだろうか。その御言葉が内的霊的に関するものではなく一摂理の目標だったりするものでも、そこだけを取り上げて未来永劫の私達への願いと取ることに疑問を抱かないのだろうか。御言葉は流れてこそ御言葉であり、摂理も留まらずに常に状況に合わせて変化させていくものだ。今は後天の時代だ。万人それぞれの主体性が発揮される時代だ。二世はその新しい時代を牽引していく摂理の中心的存在だ。二世は一世の姿勢や行動に疑問を覚えるなら引かれたその線路を走る必要はさらさらない。勿論教条的な信仰の在り方も敢えて踏襲する必要はない。実体という結果に関する限り一世は何の貢献もしていない。一世には二世を壇上から教育する資格はない。ないない尽くしの状況で二世は全く一から、蘇生段階から始めなければならない。それでもマイナスの位置から蕩減を背負って穴埋めをして、人間以下の歩みをしながら平坦にすることができた一世の功労だけは認めてそれだけは感謝すべきだろう。一世は卑下する必要はないかも知れないが正しい歩みをしてきたと誇ることはできない。それは覇気のない私達の空気感に表れているし、二世達に力強く語れる理想も持ちえないでいる。そうなると御言葉だけを手渡して全て二世に丸投げするしかない。何はともあれ2022年の航海は出帆した。良心をなだめ誤魔化しながら信仰を辛うじて維持してきたが、その信仰は果たして2022摂理の航海に機動力となり得るだろうか。或いは逆に航海の妨げとはならないだろうか。

2022年1月1日土曜日

2022年の時代霊を迎える

 御母様は御母様で、お二人の御子女様は御子女様で、それぞれの使命とされる道に献身されたのだろう。神輿を担ぐ食口達も、それぞれ信じる中心に一片丹心を捧げたのだろう。誰も彼等を批判することはできないし、私はただ頭が下がる思いだけで何の言葉もない。私は彼ら以上の事をしてきたとは口が裂けても言えない。しかし私にはそれだけでは良しとされない直感を、歯がゆくも覚えている。ウィルスで肺がやられ、アボジが今生の際(きわ)で呼吸困難の苦しみを甘受されたように、溺れた者達が世界規模で溢れているこの時代に、食口達がそれぞれの信仰を保ち繋ぐ意味とはいったいなんだろう。神霊は人類をどう導き、聖霊は歩み続ける者達とどう共にあって支えるのだろうか。神霊を認識し、神霊が導く中心的摂理に私達は応えようとしているのだろうか。ではその中心摂理とはいったい何だろう。いつも口にしているように、神霊を受け取って摂理観が立っていなければ本人の信仰がどれほど篤かろうが盲目的であり独善の域を出ることはないだろう。先天の意味を個に於いても全体でも問う総括を多くの食口がしていると思われるが、先天を歩んだ意味や先天で残した結果を解らずして後天の摂理を牽引していく群れにはなれない。2021年が去り2022年を迎えた。2021年の中心的時代霊が2022年の中心的時代霊に交代する。神霊にまみえることができる本宮への参拝は夫婦一体圏でなされる。祝福家庭であればその秘儀を伝授されているはずなのに、しかし祝福家庭の中ですら夫婦一体圏が等閑(なおざり)にされている。思考によって神霊を受け取る先天の時代はとっくに過ぎ去っているのに、それでも思考で捉えようとしている食口の方が多数派だ。それでは神霊を受け取れないし摂理の本流に出会えることもない。第四次アダム心情圏に位相を置く第四次アダムの群れとはなれない。その認識を得て、多くの食口が目覚めることができる2022年でありますように。