2022年5月28日土曜日

今日の想い 1154

日常の何気なく取っている行動やルーティンワークをして、魂の活動である知情意の意を発動していると思うのは、実に思い上がっている。そんなのは動物の魂の分野であって、精神存在としての人間の魂には程遠い。知の活動が精神的知、即ち叡智を発動するのでなければこれまた人間の魂には程遠い。同じく情の活動も自分の子を可愛がるだけでは動物も同じであって、人間魂本来の情とは心情の発動に他ならない。いかに日常を超えるか、ということだが、原理の生活化とは自分を安全圏に留めたり留め続けることではなく、自らの中の良心は安全圏を超えた位置で発動するのであり、それこそが原理の生活化だ。よってああしろこうしろ、あれはしてはいけないこれをしなければならない、という受動的な教条主義で良心の話をしても良心が発動することはない。安全圏に安住することに執着を持たないこと、土台を崩される危機に正面からぶつかること、これこそが原理の生活化というか原理の体恤化だ。アメリカで生活して感じたことは、社会的階級を上がれば上がるほど傲慢度が増すということ。例えば、のらりくらりと話をかわして取り合わない大家、言語もろくに喋れないのに依頼するのかと上目遣いのロイヤー、訳の分からない法的用語をまくし立てて黙らせる上から目線の判事、地位が傲慢にさせるのか傲慢だから地位に着けるのか、アメリカが本来の民主主義がどうかは別として権威を手にしている階層は悉く傲慢だ。しかし権威階層におもねることで事が運ぶのではなく、言葉でしっかりと言い負かす者が階層に食入ることができる。或る意味それは自分を通していく闘いでもある。その為には語学も大切な要素ではあるが、最も大切なのは曖昧な自分ではなく明確な意見や意志を持つ自我をしっかりと確立することだ。アメリカ社会は生きていくためにより戦う必要がある。個を見れば確かにアメリカ国民は日本国民より闘っているだろう。日本人特有の優しさが自分を許す優柔不断や曖昧さに変容されてしまい、日本を何とかなる主義で蔓延させるべきではない。

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