2022年5月19日木曜日

今日の想い 1152

 神、という言葉がある。神と言う言葉を聞き、或いは言葉を口にしながら認識している神を表象する観念がある。しかし観念と概念とは異なる。自分が口にしている神への認識が、それが本当に神なのだろうか。神だと言いながら実は神まがいの別の存在を神だと口にしているかも知れない。実は統一食口も含めて、神だと思っている存在は天使存在に違いないと私は思っている。私達が昨今感じる戦争への感情も、その善悪感情を神様も同じく感じておられるはずだと、同じ感情に立つ神様を信じて疑わないが、果たしてそうだろうか。私達の傍らにいて同じ感情に立つ霊的存在は、霊界に旅立った人間も含めて天使存在に違いない。確かに天使存在も人間よりは高みに立つ存在には違いないが、地上界に鉱物植物動物人間とヒエラルキーがあるように、霊界の天使存在もヒエラルキーがあり、おそらく神はその地上界霊界全てのヒエラルキーすべてに生き、すべてを活かし、その為にヒエラルキーを超えた真の愛の存在であって、その位置に立って天宙全てを真の愛で実体的に主管することができる真の愛の実体存在こそ、神の実体と言えるだろう。人間の中には人間の形を取ってはいるが、霊的に見れば高位の天使だといえる存在もいる。アボジの位相を霊的に見ることができる人間とはそういう人達だ。アボジがメシヤで、更に神様の実体である実体御言葉かどうかを、どうしてヒエラルキーの階下で右往左往している普通の人間である私達に判断できるだろうか。神様の事情をわかっているつもりでいるが、神様か天使かもわからずに理解できるはずがない。祝宴や祭壇に供される動物は、動物のヒエラルキーに立てば殺戮される悪に違いない。しかし動物はより高次の位相への供犠を喜びとしている。動物を人情に立って見るしかない人間だが、動物は非堕落圏に立った存在だからより神に近い彼等にして殺戮という犠牲を善だと捉えるのはあり得る。同じように戦争や災害を、悪一辺倒では語れない人智を超えた霊的、或いは神的理解もある。蕩減という言葉は食口達には馴染ある言葉だが、蕩尽という言葉があることを知っているだろうか。財を湯水のように使い果たすという意味合いだが、戦争も災害も、人命も含めた多大な財を使い果たす蕩尽だ。蕩尽は地球規模の宇宙的祭事だ。本当に神様を理解し神側に立つなら、人間的悪である殺戮であってもそれも犠牲として供犠の祭壇を神的喜びで準備できる者でなければならない。子女様の亡骸を前に、オモニに対して涙を流さないように忠告され、神的喜びで愛されたアボジの胸中と同じように、、。

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