原理から信仰に入った食口の課題は、神の存在や在り様、霊界の存在や在り様などの論理的説明を納得して受け入れてしまったことだ。納得して受け入れることで本当は理解の入り口に手をかけただけであるにも関わらず、解ったつもりでそれ以上の求める意志を働かせてはいない。原理講義を一通り受けた時点で宇宙や人生の全てを知ったかのような錯覚に陥り、この世から学ぶものはないと現実経験の価値を随分と低く値踏みしている。本当は原理を知ろうが知るまいが相変わらずこの世の人達と同じステージにいるのであり、差ほど変わりはない。いや、求める意志を働かせずにいる時点で、悩み苦悶し求めている世間一般の人達、謂わばカイン圏やサタン圏の人達の方が神により近いのかも知れない。少なくとも先ずその謙虚さから入り、底辺から彼等に学ぶ姿勢は私達に必要な部分だろう。原理を振りかざして世間を切り、善だ悪だと決めつけているが、それは歴史に見てきた宗教的権威の押し付け以外の何物でもない。信仰が道徳を超えてしまうのは、謙虚さ故の信仰であるにも関わらず、私達の理解を正しいものと過信して現実社会に押し付けようとするからだ。教会でもヤコブの知恵か何か知らないが、随分と独善的判断と行動に出てきた過去があるのはその通りだ。しかし今の教会や責任者、そして食口一人一人が謙虚さに立ち返ることができるかどうか。
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