男は女を求め、女は男を求めるのは、ひとつになりたいという衝動がそうするのだとしても、ひとつになって男になりたいわけでも女になりたいわけでもないだろう。しかし女になりたい男がいて、男になりたい女がいる。また男が男を求め、女が女を求める者もいる。たとえそういった者達に宗教的タガを外して多様性として認めるとしても、その衝動や指向がどこからどうしてくるのかを見なければ、認めさえすれば良しとされるものでもないだろう。また無暗に否定されるべきものでもない。しかしその霊的背後の意味を知ろうとすれば、それなりの霊的位相を登らなければならない。ここまでそういった彼等の存在があからさまにされ、皆の意識に上るのには、確かにそれなりの霊的意味があるはずだ。もしそうでないなら社会全体により注目され意識されるということにはならない。サタンが先行し神がその背後から行使するように、カインが先行しアベルがその後を追う。悪から善に取って代わるのではなく、悪の形状に善の性相が入り込んで、悪と思えていたものが善になる。より天国に近づくとしても、不倫がなくなり離婚がなくなるとは思わない。不倫や離婚が別の意味を持って摂理進化の役目を果たすだろう。LGBTを受け入れない教会だけれども時が過ぎようが彼等の指向がなくなる世がくるとは思わない。やはり摂理的な別の意味を持ってその形状は残るはずだ。アボジが生殖器と性に光をあててその聖なる側面を提示されたように、、。
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