堕落性の表れであるアダムエバ問題、カインアベル問題、そして万物主管問題(公金問題)の三つの問題に特に焦点が当てがわれ、これを犯さないという戒めが教会組織の内部に徹底されていた。それは度重なる修練会や毎日の朝拝や反省会での教育の徹底であり、遠ざけて距離を置くように訓練された。しかしそれでは根本的解決には当然ならず、触れずさわらずではなくて如何に主管するかが教育なのだが、個の主体性教育より組織強化の為の教条的教育に偏っていた。良くも悪くも個より全体だった。アダムエバ教育の弊害は性=罪であり、違反した者や祝福を受けていない者への偏見であり、自分への戒めもさることながら純潔への執着は子供への戒めをより強めることになる。カインアベル教育の弊害はイエスマンのコピー教育であり、主体性の欠如による思考停止は結局教会全体の発展を阻害している。公金教育に至っては自由になるお金は子供の小遣い程度であったし、使うことで学んでいくはずのものを、使わせないことで使う過ちを避けることに意識を宛がわせた。公金は恐ろしいものという認識だけでどうしてお金を主管するという段階に届くだろうか。お金を所有することや使うことを避けて価値や意味を学んでこなかったから、当然ビジネスの意味もわからないし、ビジネスを大きくし成長させることなど難しいということになる。実は教会から家庭連合に変わることで、宗教を超えた摂理が始まった。宗教は戒めや枷という教条的部分からどうしても逃れられない、すなわち孤立化してしまうが、宗教を超えることで現実社会に浸透し社会を変えていく新たな摂理ステージを歩むことができる。本来神の祝福であるはずの個性完成、子女繁殖、万物主管はそれを求めることで逆にサタンの餌食にされた堕落の歴史がある。だから宗教権威をして逆に三大祝福から遠ざけてきた先天の過去があるが、強めれば強めるほど地上界の力や権威をカイン圏に譲ってきた。教会が国やマスコミに対して力不足なのは先天特有の信仰観からきている。しかし後天時代は宗教を超え、自分の外に従うべき対象を得ていたものが自分の内に従うべき良心を持っている。その意味で天と地は裏返しになった。日本は摂理中心国家であるので、昨年の驚天動地の事件や国あげての教会非難は、信じていた天が目の前で崩壊するのを見たと同じ意味だ。教会が打たれた、天が崩れたと嘆くのではなく、新しい天は既に用意されている。新しい天は私の内の良心に築かれている。しかし崩壊した古い天にしがみついている者達も少なからずいて、この試練を超えれば大きな天運が待っていると能天気に構えている。棚からボタモチ思考は、天国というニンジンをぶら下げられて周りも見ずに走ってきた馬の行動と通じていて、そういった古い革袋にしがみつく食口はどう救いを得るのだろうか、どう伝えたらいいのだろうかと考え込んでしまう。
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