献身時代のように小遣い制であれば、所有することもできないが逆に借金を抱えることもない。サラリーマンのように給料制であれば、家計を超えて大きく所有することもないが逆に大きく借金することもない。せいぜい家のローンを抱えるくらいだろう。しかし自営業であれ従業員を抱える会社であれ、普通生活に足るお金の何倍もの所有を可能にするし、その逆もあって普通に生活していたら抱えることのないローンの何倍もの負債を負うことも多々ある。要するに主管圏を大きくすればそれ相応のマイナスの可能性、要するに大穴を開けてしまう可能性も同じ量増えるということになる。外的な経済活動に例を取ったが、これが内的霊的な活動にも当て嵌まって、位相が高くなればなるほど人格を疑うほどの闇も同時に持ち合わせる。言い切ってしまったが自分自身は位相は低いままなので仮説といえば仮説にすぎない。しかしそれなりに長い信仰生活を振り返れば、何かをやらかして落ち込みもがいている時こそ、新たな次元の扉が開いてかつてなかった意識の持ち様だったり、新しい理解の方法だったりを学ぶことが出来た。アボジの話をすれば、私は御父様の高みにある位相を疑うことはないが、位相が高ければ高いほどに人によっては彼の人道を疑いかねない程の闇もきっと併せ持っておられたはずだ。地獄を通過しての天国であり、天国からの地獄落ちだ。食口が真に霊的位相を高めようとするなら、闇を受け持つ覚悟を持たなければならない。信仰的原理規律を守ることだけに汲々とし、それで天国に行きたい地上の平安を犯されたくないとするなら、それは人間の内的霊的な自由と責任を受け持ったことになるのだろうか。守れない者は救われないと断罪するのだろうか。銃撃事件の加害者や教会抹殺を目論む二世を見ながら、表面的には彼等に対する批判を口にするのは当然かも知れないが、アボジに従えばこその教会の闇の部分を抉り出されたのはその通りだろう。アボジは大量殺戮者にも祝福を与えたが、彼の闇の深さが逆に聖人の位相の高さを際立たせたということだろうか。もう一度経済の話に戻して締めくくると、国が量的緩和で莫大な通貨を投入する意味は、国債という国の借金を莫大に抱えるというバランスシートだ。外的にも内的霊的にも、明の部分に意識の光を当てるだけではなく、暗と闇の部分にも相応に認識の理解や納得を当ててこそ人類は進化前進することができる。
2023年4月25日火曜日
2023年4月24日月曜日
今日の想い 1235
私達の親世代は生きることに必死でがむしゃらに頑張ってきたが、しかし私達一世の年代は高度経済成長期のピーク、或いはピークを超えた頃で、何のために頑張ってきたのだろうと自問自答し人生に対する回答を要求し始めた。親世代は先ず生きる為に組織人間、会社人間になったのであり、その反動というか、ベクトルの向きを180度変えるため人間とは何ぞやに対してそれなりの回答を求める時代に入っていた。では二世の生きる現代はどうかというと、糧を得るための外的人生でも内面の充足のために外的犠牲を伴う内的人生でもなく、内外を調和させようとするバランス人生を送るようになっている。二世は一世の歩みを内的には相続するとしても外的な指針や教会システムをそのまま相続する必要もないし、押し付ければかえって悪影響を及ぼしかねない。み言葉に反するように思うかも知れないが、み言葉は決して戒律としてこれをするなあれをしろという類の教えではなく、全てのみ言葉は内的霊的な言葉として理解し相続すべきだ。堕落は確かに性が関係しているけれども、だから外的に性を遠ざけろというのは一世には納得できるとしても二世には理解できない。堕落に外的な性が関係したのは結果であって堕落の内的霊的意味は性の背後にあると思えるのがみ言葉に真摯に取り組んだ二世の理解だ。当然のように結婚以前に関係を持ったら堕落だとか、離婚は堕落だとかいうのは彼等の理解を得ることはない。同じようにLGBTの問題も一世の何が何でも認めないというのとは違ってくる。私は教条主義を否定している立場だけれども、勿論多くの一世は教会の事細かな戒めを守ってこその勝利者だと思っているが、どちらが正しいかというのは論点ではなく、私は私の良心に鑑みてそう思うだけの話だ。だから私は子供にも二世達にも、時代は後天時代だし今の時代、教会の枷をはめ込む必要はまったくないと伝えたいし、良心を中心として内外のバランスをしっかりとり、摂理観を培って欲しいし自分の使命に生きてほしい。大河のように時代は流れ、刻々と変わる中で摂理観も人生観も変っていくのだから、、。
2023年4月19日水曜日
今日の想い 1234(恐れから畏れへ)
万物を食べれば体内の血肉となり、男女の性を食べればそれが背負う霊界となる。偏食に陥らない限り人間は普通何を食べても体の成長と維持に悪影響を及ぼすことはないが、しかし性に関しては誰をどう食べるかによっては自分の霊界に支障をきたしてしまう。当然そう信じてきたし、相対以外の関係は持つべきではないと戒められているが、戒めに抑えられている以上信仰から認識には至らない。しかし言っておくが戒めを犯せと言う気はさらさらない。何年も信仰年数を経ていればわかるように、どれだけ断食しようが食欲が減らないのは当然であるように、どれだけ戒めを守ったところで性欲が減ることはない。逆に遠ざければ遠ざけるほど渇きは増すばかりだ。もし何らかの理由で、罪や裁きと不倫との直接の関係性を自分の中で否定出来たら、一気に一線を飛び越えて己が性の解放に向かうはずだ。アボジの聖和は食口の戒めの縛りを幾らか緩めているし、更に教会への様々な疑問や不満は更に縛りを緩めている。そして更に更に教会問題が世間に露呈されたことでもはや縛りは緩々だ。だから戒めでは既に自分を縛り守ろうとしても限界があって、甘い機会に出会おうとし誘惑の微かな手引きでもあれば、敷居を跨いで居間から畳の間に簡単に入るように一線を超えてしまう。自らの良心が真に立つためには、もはや戒めではなく性への尊厳をより確立する必要がある。戒めは恐れとして働くが、尊厳は畏れ、すなわち畏怖の念として働く。畏怖の感情というか心情を、訓読を通して、或いは天を慕うことで学ぶ必要がある。自らも含めて再度念を押すべきことは、性欲を抑え遠ざけようとするのではなく、これほどに魂の乾くほどに求めている肉を持つ私は、本当に求めている内的霊的な乳と蜜の流れる対象を探し出す道のりの途上にあること。そして知恵ある者として安易な対象で満足できると決して思わないこと。手に届いてしまえば、本当の得るべき対象を求める内的力を失いかねない。私の一途な願い、欲望は、決してイメージさせられている対象ではない。それは地に堕ちた天使長が見せるマーヤー(幻影)に過ぎない。
2023年4月11日火曜日
今日の想い 1233
信用創造は、借りて生産して増やして返してこそ創造されるのであって、それが中央銀行が何の担保もなしに紙幣の輪転機を回すことでも、銀行が借り入れ方を無理くり増やすことでもない。金融商品を挟んでもそれが生産活動に寄与しているなら意味があるが、金融商品の値上がりだけで膨らましても信用創造とはならない。今、銀行株価下落や破産の伝染が問題になっているが、銀行が証券会社化してしまい、実体経済の取引量が殆どであった過去の銀行とは随分趣が異なっている。金融経済に足を突っ込めば取引量は格段に増すけれども、金融商品は所詮アブク銭であり紙切れで実体がない。金融経済が景気上げする回り回る通貨の回転率を、次元を上げて増したのは事実で、金融悪鬼説に賛同するつもりは毛頭ないが、先にも言ったように飽くまで生産活動を後押しする副経済でなければならない。本当はリーマンショックの時に3兆ドルものドル通貨を銀行救済のためにつぎ込むべきではなかった。金融経済は実体経済よりバブル化しやすいので維持させるのではなくしっかりバブルを弾かせる必要があった。そして金融に大きく重心を移していった銀行は破産させたり統合させたりすべきだった。そうすることでドル通貨の価値が担保された。にも拘らず何の犠牲も払わせずに膨大な含み損を塩漬けさせ延命させたものだから、多くの銀行は活動する価値のないゾンビと化してしまった。大手銀も含めて殆どの銀行がゾンビだ。FRBの既に実質のない経済血液を輸血されて体に回している時点でゾンビだ。よく考えてほしいのは、働くなり投資するなりしてその通貨を増やせば増やすほど、ゾンビ化する血液で私という経済活動が成り立っているという砂上の楼閣でありバブルの春の霞だ。
2023年4月6日木曜日
今日の想い 1232 (三大祝福考察)
男は女で試せ、女は金で試せ。というのはそれでこそ当人の本性が見えるという意味で的を得ている。一般的にお金を使いたがるのは女であり、その女を得たいがために男は稼ぐ。そういう言い方は極めて俗っぽいが、お金や万物に対してどういう観を持つかで女性は判断され、女性をどう見るかという観で男性は判断される。万物を只のモノ扱いするのは当然万物に対する無礼だと思うけれども、自我を備えた女性をモノであるかのように性の捌け口とするのはもっての外で、女性に対する冒涜であり神霊に対する背徳でもある。神の人類に対する三大祝福は、言い換えれば万物に対する尊厳、人間性も含めた性にたいする尊厳、そして神霊の体としての自己に対する尊厳を学ぶことに他ならないし、数多の神霊の統一体であり中心である唯一神が異なる一つの別個体ではないように、それぞれの祝福も別個で存在するのではなく、密接に関わり合っているし、三つの祝福が統一的であってこそ真の祝福に違いない。そして魂を持つ私という自我は三つの霊的側面を束ねる自我として神様のような位置にある。性に対するとき本能的なだけでは(勿論本能的な指向も重要)性への尊厳を謳い霊的神殿を建てることはできない。み言葉で学べば理解できるように、真の愛の結実としての性であれば、実を弄ぶ以前に自分の中に真の愛としての動機を深く深く尋ねてこそ真の性、すなわち絶対性となる。普通は表面的な違いがどこにあるのか見当たらないと言うように短絡的に判断しがちだが、叡智を標榜する霊的見地に立つ者にはその圧倒的な違いをそこに見る。食口が生涯を決められた伴侶で同じように一生を送るとしても、異なる異性に対して教条的な戒めの自分で対するのか、それとも異性に対する尊厳で己の行動を決めるのかでは雲泥の霊的差がそこにある。